CONTENTS on line vol.81 2008 ★ SPRING  

先駆者たちの大地

技術王国、再び。

三菱重工業株式会社[7011]

貿易立国日本を支え、
高い技術力で経済発展をリードしてきた三菱重工。
初めてつまずきを見せた2000年3月期決算の巨額赤字の要因とは一体、何だったのだろうか。
そして、その後王国はいかにして復活したか。 写真館 企業の沿革 三菱重工業の歴史

少年時代は世界の広さをまだ知らない。自転車で駆け回る少年の想像を未知の世界へと駆り立てるのは、鉄道や船や飛行機だ。そしていつかそれらは、少年を本当の世界へと連れ出していく。

三菱の創業

三菱初代社長 岩崎彌太郎
(三菱史料館所蔵)
三菱初代社長 岩崎彌太郎
(三菱史料館所蔵)

日本を世界の舞台に連れ出し成長を牽引したのは、鉄道や船や飛行機を造る重工業だった。なかでも大きな役割を果たしたのが三菱重工だ。
三菱重工には、誕生以前から、明治維新後の殖産事業の尖兵となり、日本の発展とともに歩んできた歴史がある。その前史は、1870(明治3)年、土佐藩の岩崎彌太郎が、九十九商会を設立して海運業に乗り出したことに始まる。九十九商会は船旗号として使用していた三角菱にちなんで1873(明治6)年に三菱商会と名を改め、翌年には東京に本拠を移転した。1875(明治8)年に三菱汽船会社と改称後、同年9月には政府の海運振興策の助成を受けることとなり、これを機に郵便汽船三菱会社と改称した。この頃には保有船も増大し、その修理を自社で行うため、同年、横浜に三菱製鉄所を開設している。

郵便汽船三菱会社は、日本最初の外国定期航路である横浜−上海線を皮切りに、政府の海運政策に沿って内外航路を次々に開設していった。しかし三菱の対抗会社として設立された半官半民的色彩の濃い共同運輸会社との間にコストを度外視したすさまじい競争が起こり、日本海運全体の衰退を懸念した政府の調停により、1885(明治18)年、日本郵船会社が設立され、郵便汽船三菱会社は海運業を日本郵船会社に譲渡した。そして、1886(明治19)年には、社名を菱社と改め、造船と鉱山を主力事業として再興を図ることになった。

1885年当時の長崎造船所
1885年当時の長崎造船所

当時、三菱社は造船施設として前述の三菱製鉄所を持っていたが、これは本格的な造船事業に乗り出すためには規模が小さすぎた。そこで1887(明治20)年6月、明治政府が幕府から引き継いで所有していた長崎造船所の払い下げを受け、三菱社は、その後、事業発展の大きな原動力となる長崎造船所を手にした。これにより、三菱重工誕生の布石がしだいに整っていったのである。


三菱重工誕生
〜三菱重工の原型

1908年に、日本初の1万総tを超える商船として長崎造船所で建造された東洋汽船向け客船「天洋丸」
1908年に、日本初の1万総tを超える商船として長崎造船所で建造された東洋汽船向け客船「天洋丸」

1893(明治26)年、商法の会社編が施行され、三菱社は三菱合資会社に改組された。翌1894(明治27)年から95年の日清戦争を経て政府は海運業の拡充を急ぎ、1896(明治29)年、航海奨励法と造船奨励法を公布した。 こうして海運各社は相次いで航路の拡張と大型汽船の建造を計画し、造船業は躍進の時代を迎えることになった。三菱合資会社は造船事業の拡大を期して、長崎に続く第2の造船所として、1905(明治38)年、神戸三菱造船所を開設、さらに1914(大正3)年には下関に彦島造船所を開設した。

彦島造船所が開設された1914年、第1次世界大戦が勃発し、欧米列強はアジア市場から後退して日本の輸出は一挙に拡大した。同時に輸入が途絶えたため内需が拡大し、日本の産業構造は重化学工業化に向けて急速に進展していった。こうした追い風を受けて、三菱合資会社は各事業部門を独立させて株式会社とし、三菱合資会社が持株会社として全部門を統括するという大変革に乗り出した。一連の組織改革は、1917(大正6)年、三菱造船(株)の設立(以下、旧三菱造船)から始まったが、これが三菱重工の原型である。同じ年に三菱製鉄(株)、翌1918(大正7)年には三菱鉱業(株)と三菱商事(株)、1919(大正8)年には三菱海上火災保険(株)と(株)三菱銀行、さらに1921(大正10)年に旧三菱造船の電機部門が独立して三菱電機(株)が設立された。

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