CONTENTS on line vol.77 2007 ★SPRING  

先駆者たちの大地

企業が起こす化学変化

旭化成株式会社[3407] 写真館 企業の沿革 旭化成の歴史

日窒コンツェルンの誕生

旭絹織膳所工場(1926年)

グランツシュトフ社がビスコース法以前に採用していた人造絹糸製造法は、銅とアンモニアの溶液を使った銅アンモニア法である。この製法にこだわり続けてきたのがドイツのベンベルグ社である。ベンベルグ社は技術改良を重ねて、より絹に近い糸の製造に成功していた。アンモニアの新たな利用法として、野口はこの「ベンベルグ」に着目。1928年11月に共同出資会社の設立と製造技術導入の契約を交わし、翌1929年4月、日本ベンベルグ絹糸(株)が設立された。

「ベンベルグ」とビスコース人絹の糸の断面。「ベンベルグ」はビスコース人絹のようにぎざぎざではなく、絹の断面に近い

この頃、日本窒素肥料は朝鮮に進出し、硫安肥料の製造拠点は延岡から電力費の安い朝鮮の工場に軸足が移っていった。アンモニアの新たな利用法として、日本窒素肥料の延岡工場に隣接してペンベルグ工場が建てられる一方、延岡工場は1931年5月に設立された延岡アンモニア絹糸鰍ノ水力発電設備とともに移管され、分離独立した。

2年後の1933年7月、延岡アンモニア絹糸、旭絹織、日本ベンベルグ絹糸の3社は合併し、旭ベンベルグ絹糸(株)が誕生。後の旭化成を予見させる姿がしだいに見えてくる。

野口は安く豊富な電力を求め、さらに朝鮮興南地区で年間50万トンの硫安を生産する大規模な施設を計画した。黄海に注ぐ鴨緑江の三大支流、赴戦江、長津江、虚川江の上流に巨大なダムを築いて人造湖をつくり、その水をトンネルを通して朝鮮半島東側の長白山脈から落差1000mといわれる日本海側に落として発電するという壮大な計画である。

ベンベルグ、レーヨン製品&ポスター

やがて興南地区には10社を超える日本窒素肥料の子会社や関連会社が設立され、工場敷地面積600万坪、総人口18万人という世界屈指の大化学コンビナートが出現した。この完成により「日窒コンツェルン」といわれる日本窒素系企業集団が形成されることになった。

さらに野口の事業拡大への欲求はここでとどまらず、台湾、満州(現在の中国東北部)、海南島、スマトラ、ジャワへと事業を拡大していった。が、1940年、野口は朝鮮の京城で脳溢血のため倒れ、終戦を迎える前年、1944年に逝去した。

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