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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2002年5〜6月号 Vol.55
 

今を切り拓き、未来を建設する不動産会社
三井不動産株式会社

江戸英雄社長
(1955年就任)


戦後の復興から高度成長を通して日本が大きく変わっていくとき、
その推進力となって大きく飛躍した不動産会社が三井不動産である。
何もないところから出発した戦後の日本と同じように、
「土地を持たざる」不動産会社であった三井不動産は、
積極果敢に未来を開拓することで、
大きく発展を遂げていくことになる。

経済成長で日本が変わっていく時代を象徴する霞が関ビルは、
三井不動産の飛躍の象徴でもあった

東京に未来がやってきた

  アポロ11号に乗って人類が初めて月に降り立ったのは1969年。21世紀はまだ遥かに遠く、未来が夢と同義語だった時代。超高層ビルが立ち並び、その間を縫うように高速道路が走る立体的な都市が、当時の未来観を代表するイメージだった。今でこそあたりまえの都市の風景だが、その頃の東京は平均1.5階建ての低層都市だったのだ。アポロ11号の前年、1968年、いよいよ日本でも最初の未来が姿を現す。地上36階建て、日本初の超高層ビル、霞が関ビルの誕生だ。それまで無名だった三井不動産の知名度は、この超高層ビルの建設によって一挙に高まった。三井不動産は、もともと三井家の不動産を管理するために生まれた小さな不動産会社で、営業用の土地はほとんど持っていなかった。しかしこの「土地を持たざる」不動産会社が持っていたものは大きい。過去に財産を持たない以上、積極果敢に未来を切り拓いていくしかない。その姿勢こそ、三井不動産の財産であった。

三井家の家産を守るために

  三井不動産株式会社の創立は、1941年、太平洋戦争が始まった年のことである。比較的新しい会社だが、その前史は、18世紀初頭、三井家が一族の所有する不動産を管理する機関として設置した「家方(いえかた)」にさかのぼる。三井財閥の開祖、三井八郎兵衛高利は江戸本町の越後屋呉服店に続いて為替両替業でも成功を収めていたが、幕府の公用為替を引き受けるため、その担保物件となる大量の不動産を買収していた。
  そして高利の没後、これらの不動産を管理するために設置されたのが「家方」である。その後、三井銀行、三井物産、三井鉱山などの設立を経て、1909年(明治42年)、これら三井の事業を統括する持株会社として三井合名会社が設立され、1914年(大正3年)、所有する土地・建物の管理運営のために不動産課が新設された。この三井合名会社不動産課こそ、実質上、現在の三井不動産の前身なのである。
  1937年、日中戦争が勃発し日本は戦時体制に突入した。そうした戦時下という膨大な資金需要と相次ぐ家督相続の納税資金を調達するためには、合名会社という閉鎖的な組織では対応しきれず、三井合名は1940年、子会社である三井物産に吸収合併され、株式組織化が図られることとなった。
  そして三井物産の株式公開にあたって、三井家固有の家産ともいうべき不動産を守るために、1941年7月15日、三井不動産株式会社が設立されたのである。

総合不動産会社としてのスタート

  終戦後は、GHQの管理下に社会は一変する。財閥解体、地代家賃統制令、占領軍によるビルの接収、また預金封鎖や新円切換えなどという経済的混乱がひき起こされ、三井不動産の経営もきわめて苦しい状態にあった。1950年代に入って、ビル事業は戦後の混乱を脱して再起へ向かうが、まだ小さなビル会社であった三井不動産が所有する営業用建物は、1955年3月末の時点で9棟にすぎなかった。飛躍への一歩を踏み出すのは、同年11月、江戸英雄社長が就任してからである。
  江戸社長は、それまでの低迷を打ち破るために積極的な経営方針を打ち出した。手持ちのビル用地が少ない「土地を持たざる不動産会社」であった三井不動産は、この時期、社運を賭して新規事業の展開を図り、ビル事業に加え、浚渫埋立事業と宅地造成事業への進出を決断した。この2つの新事業の背景には、1950年代なかばから始まった第1次高度成長がある。
  民間企業の設備投資需要に応えるための臨海工業用地の開発と、所得が増加しつつあった人々の住宅地の開発という、近代化していく日本の社会的要請にいち早く応えようとしたものである。
  こうしてようやく総合不動産会社としての歩みを開始した三井不動産が大きく飛躍する契機となったのが、京葉臨海工業地帯埋立計画である。1957年、三井不動産は、千葉県の友納武人副知事から、京葉工業地帯建設の着手となる市原地区の埋立事業への参画を要請され、1958年4月、着工した。この工事は1961年7月に完工したが、これを契機に、三井不動産はその後も長期にわたって京葉工業地帯の開発に協力することとなった。
  この間、ビル事業も本格化し、また宅地造成事業も順調に推移して、1962年度の営業収入は、1955年度の9億2,400万円から10倍以上も急伸して93億8,700万円となり、同業である三菱地所の88億8,727万円を凌駕して一躍業界トップとなった。

日本初の超高層ビル

  1960年代に人口と産業の都市への集中はピークを迎える。それは交通渋滞、通勤地獄、大気汚染、騒音、緑地やオープンスペースの減少など、多岐にわたって都市問題を生み出した。
  こうしたなか、1963年7月に建築基準法が改正され、建築規制は従来の高さ制限によるものから容積率による規制へと移行していった。容積率とは敷地面積に対する建物の延床面積の割合で、容積率がクリアされていれば、小さな建築面積で階数の多い建物も建築可能となったのである。
  つまりこの建築基準法の改正こそ、超高層ビル建設の法律的基盤を創出するものであった。その背景となったのが、耐震設計理論の変化である。関東大震災以来、日本では鉄骨と耐震壁による剛構造理論が耐震設計の基本となっていたが、この方法ではビルの高さは31mが限界とされていた。しかしこの頃、粘りの強い鉄骨を利用して地面からの振動を吸収する柔構造理論が確立され、その常識は覆されたのである。
  高さ制限がなくなりビルのスペースが上へ伸びていけば、ビル周辺のオープンスペースが確保され、都市問題に配慮した都市再開発も進むことになる。
  こうして超高層ビル建設の背景が整い、三井不動産は、いよいよ、霞が関ビル建設プロジェクトに着手することになった。その発端は、霞が関に東京楽部ビルを所有していた(株)東京倶楽部が、三井不動産に協力を求めてきたことに始まる。三井不動産は近隣の敷地と敷地統合の折衝を進め、その結果、容積率910%、地上36階建て、高さ147mという日本初の超高層ビルのプランがまとまった。
  1965年3月、霞が関ビルは着工し、1968年4月に竣工した。何しろ日本では史上例のない高層建築である。地震、火災、風などに対する防災対策はもちろん、施工法なども従来の理論をそのまま当てはめることはできない。さまざまな分野の叡智を結集した新技術が導入され、日本の建築学会の金字塔ともいうべき建物が完成したのである。
  霞が関ビルが三井不動産のビル事業を大きく発展させたことはいうまでもないが、それ以上に、このビルは日本中の関心を集め、マスコミでも大きく取り上げられた。それまで、例えば全国で飲まれたビールの量を示すような場合、丸ビル何杯分と例えられていたが、霞が関ビル完成後は、霞が関ビルにして何杯分という例が使われるようになったほどである。三井不動産の知名度は、霞が関ビル建設を通じて一気に高まり、企業イメージも著しくアップした。

不動産の概念を変える新事業

  1968年以降、三井不動産は、それまでのビル事業、浚渫埋立事業、宅地造成事業の3本柱に加えて、住宅事業、海外事業、レジャー事業などの新規事業に着手し、総合デベロッパーとしての華々しい活躍を開始した。積極的な経営姿勢の最近の例といえるのが、不動産投資信託(J-REIT)に対応するノンアセット・ビジネスの展開だろう。不動産投資信託は2000年5月の投資信託法の改正以後、注目を集めてきた新しい形態の金融商品である。従来のように資産価値として不動産を捉えるのではなく、収益価値や利用価値など不動産の付加価値を創造して運用していくもので、資産を保有して収益をあげるこれまでのビジネスに対して、経験やノウハウを生かしたサービスを提供することで収益をあげる新しいスタイルのビジネスである。
  これまで三井不動産は、京葉臨海工業地帯の浚渫埋立工事や霞が関ビルの建設など、社会が大きく変化する節目となるような仕事に取り組んできた。未来を建設してきた不動産会社といってもいいかもしれない。不動産信託投資も、土地を希少な財産と考えるこれまでの不動産の概念を、根本から変える可能性を含んだものである。土地の概念が変われば日本経済の構造にも少なからず影響がある。三井不動産の新しいビジネスが時代をどのように動かしていくか、今後の展開は注目に値する。