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CONTENTS on line vol.88 2010 ★ NEW YEAR  

先駆者たちの大地
TOKIOの名に刻まれたDNA
東京海上ホールディングス株式会社[8766]
戦前、「トキオ・マリン」の名で世界を舞台に活躍した東京海上日動。
そのDNAが、今、再び目覚めようとしている。
保険業界メガ再編の今に至る、東京海上日動130年の足跡をたどってみた。 写真館 企業の沿革 東京海上ホールディングスの歴史

東京・丸の内にある東京海上日動本店の玄関に、英文のロゴタイプが掲げられている。普段は気に留めずに通り過ぎてしまうだろうが、足を止めて眺めてみると気づくことがある。英文社名が「TOKYO MARINE NICHIDO」ではなく「TOKIO MARINE NICHIDO」と表記されているのだ。じつはこの英文表記に、東京海上日動のDNAが隠されている。「TOKIO」という表記は、東京海上日動の前身である東京海上保険会社創業当時のイギリスの慣習に倣ったもの。海上保険業としてスタートした東京海上日動の歴史は、必然的に早くから海外を舞台にして展開されるが、とりわけロンドンを抜きにして語ることはできない。ロンドンで鍛えられ、保険会社としての原形質が形づくられた記憶が、そのロゴタイプには刻み込まれているのだ。

船出

東京海上保険会社の創業は1879(明治12)年である。明治時代に創設された企業によく見られるように、一代で会社を興し成功を収めた立身出世の起業家は、最初の舞台には登場しない。その代わりに登場するのは、実業界のスター渋沢栄一と華族たちである。

渋沢は、華族の資本を動員して東京―青森間に鉄道を建設しようと計画していたが、これが頓挫したため新橋―横浜間の鉄道払下げに方向転換、しかしこれもまた実現には至らなかった。さて、華族たちから集めた目の前の資本60万円を何に投資するべきか。鉄道に代わる国家有用の業とは何か。思案の末、思い至ったのが貿易推進のインフラとなる海上保険会社の設立であった。しかし、その決定がスムーズに行われたわけではない。海難事故の危険性が付きまとう業種をわざわざ選ぶ必要はないというのが華族たちの見解だった。そこで渋沢はその説得役として益田克徳を起用した。益田はこの時27歳だったが、かつて司法省にいた時、駅逓総監前島密(ひそか)のもとで「海上保険条例」を編纂した、いわば海上保険については日本最高の権威者であった。ちなみに益田の兄、益田孝は、1876(明治9)年、29歳で三井物産の初代社長になった人物である。

東京都知事宛の創立許可願
東京都知事宛の創立許可願

この頃、郵便汽船三菱会社を経営していた岩崎弥太郎は海上保険業を兼営したいという意向を持っていたが、東京海上創業の前年、政府に却下されていた。渋沢も岩崎の海運と海上保険の兼営には否定的だったが、東京海上保険にいわばクライアントである船会社が出資することは歓迎で、交渉の結果、岩崎が資本金の3分の1を出資することで話がまとまった。その結果、岩崎の資本参加が出資者の不安を解消し、海上保険会社に対する信用は高まって、出資の申し込みは続々と集まってきた。それは、岩崎ほか三菱財閥関係の出資予定比率を3分の1から5分の1に下げざるを得ないほどの勢いだった。準備は整った。こうして、益田克徳を支配人、渋沢、岩崎を相談役として、日本初の保険会社、東京海上保険会社は船出したのである。


各務鎌吉、ロンドンへ飛ぶ

1879年、創業時の広告
1879年、創業時の広告

創業当初の営業は本店と、委託した代理店によって行われた。代理店は郵便汽船三菱会社と三井物産の支店、出張所を中心に置かれ、1879(明治12)年12月末には、三菱の大阪、神戸、三井の横浜、長崎、下関など18カ所に及んだ。また翌1880年の9月には、三井物産のロンドン、パリ、ニューヨークの各支店に代理店委託が行われ、早くも欧米への進出が開始された。

同業他社が存在せず営業は順調で、第3期まで保険金支払いが発生しなかったこともあり、事業成績もきわめて良好だった。しかしこの時、保険金支払いが発生しなかったために、やがて東京海上を窮地に追い込む重大な落とし穴を見逃していたことも、また事実であった。

海外進出は加速し、1890(明治23)年には海上保険の本場であるイギリスで現地会社に委託して、ロンドン、リバプール、グラスゴーに代理店を置いた。当時は世界の海運業の半分をイギリスが握り、海上保険契約の8割以上がロンドン市場に集中していた。ロンドン市場での競争は激しく、イギリスの会社でさえ新設や倒産が繰り返されるほどで、外国企業がこの市場で成功するのは至難の業だった。ところが代理店を介した保険契約は短期間に驚くほどの急増を示した。特に船舶保険の伸びは目覚ましく、進出から1年余りで、海外の船舶保険料収入は東京海上の保険料収入全体の50%を突破した。

東京海上は日本初の保険会社で、その頃の日本ではまだ保険の概念はなじみがなかった。海上保険の最高権威といわれた益田克徳にしても、その真髄までは理解していなかっただろう。初期の東京海上の経営は楽観的といわざるを得ないものだった。そこに突如として、危機は訪れる。1892(明治25)年下半期以降、海外の保険金支払いの急増を背景として、東京海上の収支は急激に悪化した。1894年上期には一挙に66万7000円という巨額の損失が発生したのである。東京海上の資本金は60万円。それを上回る額だった。

1894(明治27)年7月、この危機に際して、わずか入社4年目、26歳の各務鎌吉(かがみけんきち)がイギリスに派遣された。ロンドンで各務は、関係帳簿類をすべて綿密にチェックした。まず、そこで見えてきたのは「現計計算」の落とし穴である。これは単年度の収入保険料から保険金、事業費を差し引いた残りを収益と見なす収支計算の方法だが、そもそも保険は一定期間を対象とするもので、事故発生による保険金支払い請求が、翌年、あるいはそれ以降になることもありうる。現計計算ではその時の資金がまったく用意されていないことになるのだ。この問題は、支払いが発生した段階でしか明らかとなりえない。創業当初から東京海上が潜在的に抱えていた落とし穴が、ここに至って顕在化した。

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