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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2006年夏号 Vol.74
 

HondaのDNAを
継ぐ者たち。

本田宗一郎(左)と藤澤武夫。コンビを組み、大きな夢を語り合っていた頃
本田宗一郎(左)と藤澤武夫。コンビを組み、大きな夢を語り合っていた頃

本田宗一郎によって築き上げられた
ホンダの独創性を、
後継者たちはどのように受け継いでいくか。
今、再び原点である現場・源流を見つめ、
新しいHondaらしさを創り上げようとしている。
ホンダの生命線はそこにある。
本田宗一郎は、1954年にマン島レースへの参戦を宣言。これにより未知への挑戦が始まり、59年6月マン島TTに初参戦し、61年には参戦3年目にして初優勝を飾る。今なお受け継がれる、Hondaのチャレンジング・スピリットとものづくりへのこだわりは、レース活動抜きには語れない。

邂逅

 浜松に本田宗一郎という天才技術者がいる、と藤澤武夫が聞いたのは、藤澤が鉄鋼材のセールスマンを辞して切削工具の製作会社を立ち上げたばかりの、1942年秋のことである。取引先の中島飛行機から工具検査のため板橋の工場にやってきた竹島弘が、やはり中島飛行機にピストンリングを納入していた本田を知っていた。その後空襲が激しくなり、藤澤が工場を疎開させようと福島に機械を運んだその日、戦争が終わった。藤澤は、戦後は切削工具より建築用木材が商売になると考え、そのまま福島で製材業を始めた。
 3年後の48年夏、製材所の機械部品を買いに東京に出た藤澤は、市ヶ谷駅の近くで偶然、竹島と再会する。竹島は通産省(当時)の技官になっていた。立ち話のなかで藤澤は、あの浜松の本田が自転車用補助エンジンの製造を始めたと聞かされた。
 本田宗一郎は、幼い頃に生まれ故郷の村でT型フォードを初めて見た時の感激が忘れられなかった。高等小学校を卒業すると静岡から東京に出て自動車修理工場のアート商会で奉公として住み込みで働き、28年、21歳の時にのれん分けを許されてアート商会浜松支店を開業した。ここで本田は消防車やダンプカー、レーシングカーの製作など修理工場の域を超えた仕事まで次々にこなし、その非凡な才能はしだいに評判を生む。しかしやがて修理業に飽き足らなくなり、36年、東海精機重工業を設立してピストンリングの製造に乗り出す。エンジン内部のピストンに装着するリングで毎秒数千回転の摩擦に耐えなければならず、その開発は困難を極めた。ようやく試作に成功した本田は39年、アート商会浜松支店を弟子に譲り渡し、本格的にピストンリングの生産を開始した。今度は製造技術の面で苦労が続いたが、2年近い歳月をかけてようやくトヨタや中島飛行機に納入できるようになり、最盛期には従業員が2,000人を超えるまでに成長した。しかし41年12月8日、日本は太平洋戦争に突入し、度重なる空襲で工場は破壊された。そして45年8月15日、照りつける太陽のもとで迎えた終戦。本田は東海精機の株を株主であったトヨタにすべて売り渡し、人間休業と称して隠遁生活に入った。そうして1年ほど経った46年秋のある日、友人の家を訪れた本田は、そこで旧陸軍の無線機発電用エンジンと遭遇する。無線機用エンジンを使って補助エンジン付き自転車を作るというアイデアはすぐにひらめいた。世界一の二輪車メーカー、ホンダは、この瞬間に始まった。
 本田のアイデアは当たった。本田技術研究所という看板が掲げられたバラックを目指し、名古屋、大阪、東京からも買い手がぞくぞくと浜松にやってきた。500基ほどあった無線機用エンジンはすぐに底を突き、本田はいよいよオリジナルエンジンの開発にとりかかる。試作第1号はエントツエンジンと呼ばれるユニークな形状のエンジンで、当時としては画期的な構造だったが、アイデアに工作精度が追いつけず実用化はされなかった。次いで開発されたのがホンダ最初の市販製品である2ストロークエンジン、ホンダA型である。燃料タンクに初めて「HONDA」と書かれたA型エンジン付き自転車は飛ぶように売れ、その波に乗って48年9月24日、本田技研工業が創設された。
「いつかは世界一の二輪車メーカーになる」と本田は創立当初から口にしていたが、その夢の実現に向けて、ホンダ初の本格的モーターサイクル第1号である「ドリーム号D型」が49年8月に発売される。夢は動き始めたが売れ行きは芳しくなく、経営は逼迫していた。技術はあったがホンダには経営手腕が欠けていたのだ。そして、運命の邂逅が訪れる。
 中島飛行機にいた竹島の紹介で、藤澤武夫が本田宗一郎を訪ねたのは49年8月のことである。本田42歳、藤澤38歳であった。生い立ちから性格、仕事の分野までまるで違っていた2人だが、初対面で互いを気に入り、その後4回にわたってあらゆることを語り合って意気投合した。同年10月、藤澤は本田技研工業の経営に常務取締役として参加した。翌50年3月、東京都中央区に営業所を開設、9月には東京都北区上十条に450坪の工場を構えた。
 ホンダは動き始めた。

四輪、走り出す

 51年10月、ホンダ初の4ストロークエンジン車ドリームE型が発売された。このヒットによってホンダは飛躍のきっかけをつかみ、翌52年4月には本社を東京都中央区に移転した。本田は次々に独創的な商品を生み出し、藤澤は当時としては画期的なダイレクトメールを駆使したこれまた独創的な手法で販売網を広げていった。なかでも驚異的なヒットとなったのが58年8月に発売されたスーパーカブである。現在まで48年間にわたって大きなモデルチェンジもなく販売され続け、累計生産台数は2005年12月時点で5,000万台と、単一のシリーズとしては世界最多の生産台数を記録している。
 企業として基盤が整いつつあった60年7月、藤澤は、研究開発部門を本田技術研究所として独立させた。藤澤の狙いは、技術者たちが企業の運営に煩わされることなく研究に没頭できる環境を作ることと、もうひとつ、本田の天才技術者としてのDNAを組織として受け継いでいけるようにという、未来への布石であった。
 こうして体制が強化され、ホンダはいよいよ念願であった四輪へ進出していくこととなる。進出のきっかけとなったのは、61年5月に通産省が発表した自動車行政の基本方針、後の通称・特振法案であった。これは自動車メーカーの統廃合や新規参入の制限を前提としたもので、ホンダは必要に迫られて急遽四輪車の開発にとりかかり、63年8月に軽トラックT360を、10月にはスポーツカーS500を発売した。結局、特振法案は廃案となったが、ホンダの車は評判を呼び、四輪進出は成功を収めた。続いて67年3月にホンダが本格的な量産車第1号として発売したのが、軽自動車業界の地図を塗り替えたといわれるN360である。5月には軽四輪乗用車届出実績5,570台を記録し、長年、軽自動車のトップを独占していたスバルを抜いてベストセラーとなった。この実績をバネに、次にホンダ初の小型乗用車を製作する。69年5月に発売されたH1300である。本田が陣頭指揮をとり、凝りに凝って開発した空冷エンジンを持つ高性能セダンであった。「水冷エンジンは最後には水を空気で冷やすんだから、最初から空気で冷やせばいい」というのが本田の持論で、H1300はその結晶であったが、販売は振るわなかった。技術的には絶賛されたが、商品としては独創的すぎたことが原因だった。ホンダの商品開発は転機を迎えようとしていた。

巣立ち

 69年夏。軽井沢に本田技術研究所の研究員約60人が集まって「なぜH1300は売れないのか」というテーマで議論が交わされた。空冷エンジンはできたが、十分な冷却効果を得るために機構が複雑になり、結局、重くなる。コストも高い。さらに、目前に迫っている大気汚染対策を空冷でクリアできるのか。技術者たちは、次の新車は水冷でいくべきと考えていた。しかしそのアイディアは、何度も本田から跳ね返されていた。説得に立ち上がったのは、これまで技術のことには一切口を出さなかった藤澤だった。「あなたは社長として残るか、技術者として残るか、選ぶべき時ではないですか」と藤澤は問いかけ、本田は「社長として残るよ」と答えた。若い者たちの技術に任せる、という水冷エンジンの容認だった。本田の子供たちであった技術研究所の技術者たちは、この時一人前と認められた。ひとりの天才のDNAが、ホンダという企業体に受け継がれた瞬間だった。こうしてN360に続く軽自動車ライフは、水冷エンジンを乗せて71年6月に発売された。
 H1300発売の翌年、70年夏、技術研究所では新たな四輪車開発のプロジェクトがスタートしていた。再び失敗すれば、ホンダは四輪車市場からの撤退も辞さないという、背水の陣だった。世界市場を志向した車。これまでよりはるかに大きなテーマがチームに与えられていた。これ以前の車は本田のアイデアが原点となっていたが、ここから、開発、生産、販売の各メンバーがプロジェクトチームを組んで商品を生み出す新しい開発方式が始まった。最終的に決定したコンセプトは、「ユーティリティ・ミニマム(最も効率のよいサイズ、性能、経済性)」と「マン・マキシマム(十分な居住空間の確保)」。結果、当時の日本ではまだ珍しかった3ドアハッチバックの台形スタイルという独特なデザインが生まれた。シビックと名付けられたこの新車は、72年7月に2ドア、9月に3ドアGLが発売され、爆発的なヒットとなった。72年から74年まで3年連続で日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したほか、カナダでは76年から78年にかけて、28カ月間連続で輸入車台数第1位を記録するなど、国内外を問わずその評価は高かった。
 そして73年12月、シビックCVCCが発売された。CVCCとはホンダが開発した低公害・低燃費のエンジンで、副燃焼室を設けることにより、触媒を使わずエンジンそのものの燃焼で排ガス中の大気汚染物質を抑制する。70年にアメリカで発効された大気汚染防止のためのマスキー法は非常に厳しく、一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物の排出を従来車の10分の1にすることが義務付けられていたが、当時、業界では達成不可能とする声が大半であった。ホンダは72年にCVCCエンジン単体でマスキー法適合第1号となり、74年にはシビックCVCCが審査に合格、完成車としてもマスキー法適合第1号となった。

大企業ホンダ

 シビックCVCCが発売された73年はホンダの創立25周年に当たる。この年の10月、本田と藤澤は2人揃って現役を引退し、終生の最高顧問に就任した。
 その翌年、74年の9月に、シビックの上位機種に当たる新車の開発が開始された。シビックで始まったプロジェクトチームによる開発方式はさらに進化し、販売(Sales)、生産(Engineering)、開発(Development)が合議によって開発を進めていくSEDシステムとして、この新車開発で初めて運用された。「時速130kmでの快適クルーズ」を合言葉に開発が進められたこの新車は、76年5月、1600cc3ドアハッチバックのアコードとしてデビューした。シビックの親しみやすいイメージとは打って変わって美しくシャープなスタイルを持つこの車は、発売と同時に驚異的なヒットとなり、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。初代以降、歴代のアコードは全世界で順調に売り上げを伸ばし、屋台骨としてホンダを支え続けた。同時にアコードからさまざまな上級セダンが派生し、ホンダは機種のバリエーションを拡大していった。こうして自動車メーカーとしては最後発であったホンダは、80年代には国内で3位の地位を固めた。
 順調に成長を続けているように見えたホンダだが、90年代に入ると国内販売が不振に陥り、急激な円高の進行とも重なって自動車部門は実質赤字へ転落した。こうした状況のなか、90年に4代目社長に就任した川本信彦は大胆な改革に乗り出した。まず、役職や年齢を超えてワイワイガヤガヤと自由闊達な議論を通して、意思決定につなげるホンダ伝統の「ワイガヤ」から、個人個人の役割責任を明確にした即断即決型の意思決定システムへの移行を図った。形骸化していたSEDシステムを復活させ、販売、生産、開発の間に生まれていた壁を取り払った。顧客不在に陥っていたプロダクトアウトの開発を、マーケットインの開発にシフトさせた。
 ホンダはもともと、ひとりの天才技術者と偉大な経営者が両輪となって走ってきた会社だ。藤澤という名パートナーがいたからこそ、本田の独創性は企業を牽引する力となりえた。しかし、ひとりの天才のDNAを大企業となったホンダが次世代へと受け継いでいくのは簡単なことではなかった。企業の規模が拡大するなか、曲解された形で残っていたDNAを、時代の変化に適合できる形に修正し、しっかりとした企業としての基盤を構築することが川本の仕事だった。独裁的とまでいわれたこの改革だが、しだいに功を奏し、やがて新しいホンダの原動力となるような車が生まれてくる。94年10月にホンダ初のミニバンとしてデビューした、オデッセイである。

ホンダらしい
ホンダへ

 当時のホンダには乗用車の生産ラインしかなく、ミニバンを作ることができなかった。しかしアメリカのマーケットを見ても日本のマーケットを見ても、もはやミニバンは不可欠だった。あきらめきれない開発チームはさまざまなアイデアを積み重ね、アコードのラインで作れるミニバンを開発した。それがオデッセイである。結果、十分な機能を持ちながら、セダンのように車高の低い精悍なミニバンが誕生した。川本の改革は時としてホンダイズムの破壊といわれたが、オデッセイの開発チームが見せた、独創性とものづくりへの強いこだわりは、ホンダイズムそのものである。オデッセイは記録的な大ヒットとなり、96年のステップワゴン、2001年のフィットなど近年の大ヒットを生む原動力ともなった。ホンダは息を吹き返した。
 現在のホンダは、2001年以来、5期連続で過去最高益を記録する好調ぶりである。2003年に6代目社長に就任した福井威夫は、再び原点である現場・源流を見つめ、ホンダらしい独創的な商品を生み出そうとしている。企業組織としてのホンダは、川本の改革によって基盤が整えられ、その後吉野の時代にはグローバル化が加速するなかで、自主自立に向けたさらなるビジネス基盤の強化が図られた。その基盤の上に立って福井は改めて、本田宗一郎のDNAを企業の中心に据えた。ホンダフィロソフィーを企業活動の中心とし、現場の大切さとものづくりの源流を強化することの重要性を繰り返し語っている。ホンダは今、新しいHondaらしさを創り上げようとしている。