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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2003年秋号 Vol.63
 

揖斐川の電力会社から世界のプリント基板メーカーへ
イビデン株式会社

初代社長
立川勇次郎


揖斐川水系の発電所から始まった伝統ある企業は、
今やインテルにパッケージ基板を供給する
先進の電子部品メーカーへと進化を遂げている。
生物が環境の変化に適応するために
その体を変化させて、進化するように、
時代の大きなうねりのなかで業態を変化させ、
発展してきた企業、それがイビデンである。

1916年に完成した西横山発電所。イビデンの企業活動のすべてはここから始まった。
1942年に国家管理となり、出資した。
現在は横山発電所(中部電力)の下に埋没し、その姿を見ることはできない

最も古く、どこよりも新しい

  近鉄養老線の西大垣の駅は昔ながらの面影を残した駅だ。周辺には、昔この辺りが繊維工業で栄えた頃に作られた工場や会社が並ぶ。とはいえ、今では、敷地の一部を大型店に貸し出している所もあり、時計の針がゆっくりと進んでいるかのような地方都市の風景だ。
  しかし、駅の目の前に広がる工場の周りだけは、時計の針の進む速度が少し違っている。
  その工場こそイビデンのパッケージ基板工場である。イビデンはここを拠点に世界とつながり、最新鋭のパッケージ基板を供給している。
  1912年当時、何もなかった大垣の発展を願って、最初に産声をあげた会社がイビデンの前身となった。それから約90年の歳月が流れ、一番古いはずの企業がどこよりも最先端を走っている。イビデンを知るためのキーワードは、そう、「変転」である。

大垣の産業復興のために

  イビデン創業の地・大垣は、江戸時代以来、譜代大名戸田氏の城下町として、また、揖斐川を通じて東海道の要衝桑名と結ばれる水運の商業地として繁栄していた。
  しかし明治維新後の廃藩置県によって岐阜県の政治の中心は岐阜市に移り、1889年(明治22年)に東海道線が全線開通すると、鉄道輸送は大垣を素通りするようになった。加えて、揖斐川が氾濫してたびたび大洪水に襲われ、1900年(明治33年)頃には往時の面影はなく、大垣はすっかりさびれてしまった。
  しかし、1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発して起業ブームが起こり、電力需要の増大に伴って水力電気事業が急激に発展した。大垣の行く末に危機感を抱いていた地元の有力者たちはここに着目する。それまで水害を起こしていた揖斐川に水力発電所を作り、まず各産業にエネルギーを送る電力会社を設立して、大企業の工場誘致を積極的に進めようと目論んだのだ。しかし日露戦争が終わるや、不況が訪れ、資金難でなかなか会社設立のめどが立たないうえ、経営の適任者も見つからなかった。何年かの紆余曲折を経て、ようやく東京で、京浜電鉄などの経営で名を馳せていた大垣出身の実業家、立川勇次郎との接触に成功し、経営をゆだねることとなったのが1912年(大正元年)11月25日。イビデンの前身、揖斐川電力株式会社が産声をあげた瞬間である。

電気化学工業へ進出

  1916年(大正5年)6月、会社設立から3年半の歳月をかけて、岐阜県揖斐郡の広瀬川に西横山発電所が完成した。揖斐川電力の最初の発電所である。待望の営業活動が開始され、すでに大垣に進出していた摂津紡績(後のユニチカ(株))や、田中カーバイドへの送電が開始された。折しも1914年(大正3年)7月に始まった第1次世界大戦による大戦景気で、電力需要は拡大していった。
  順調なスタートを切った揖斐川電力は、好況の波に乗って、1917年(大正6年)、余剰電力を利用したカーバイドと合金鉄の製造に乗り出した。さらに、新たな発電所を建設し、それを自家消費することによって電気化学工業への本格的な進出を図ろうと、同年、立川社長は別会社として揖斐川電化工業を設立し、2番目の発電所、東横山発電所の建設にとりかかった。翌1918年(大正7年)、揖斐川電力は揖斐川電化工業など3社を吸収合併して揖斐川電化株式会社と社名を変更し、電気事業と電気化学工業を事業基盤とする新たな会社として生まれ変わった。しかし第1次世界大戦後の反動不況で余剰電力を使った兼営事業は苦境に立たされ、揖斐川電化は再び電気事業を主体として事業再建を図ろうと、1921年(大正10年)、揖斐川電気株式会社に社名を変更。その後、カーバイドに加え、電気化学事業を強化するために1919年(大正8年)に参入したカーボン事業もしだいに軌道に乗り始め、電気化学事業の市場は拡大していった。
  電気事業は事業自体が時代の進展に伴って発展するもので、需要も全国的に増加の一途をたどり、電源開発も各地で盛んに行われた。しかし各電力会社はしだいに無秩序な設備拡張に走るようになり、電力過剰の状態となっていく。このことは、やがて昭和に入ってから電気業界が大転換期を迎える遠因となり、揖斐川電気も創業以来の大きな危機を迎えることになる。

電力国家管理の時代へ

  昭和に入って世界恐慌の波が押し寄せると、電力は過剰となり、電力各社は激しい企業競争を展開して、経営は悪化する一方となった。しかし電気事業はきわめて公共性の高いもので、競争激化による電力各社の無益な疲弊は国益を損なうことになる。そのため電力の国家統制の必要性が論じられるようになり、電力業界はいよいよ統制時代への転換期を迎えようとしていた。その頃揖斐川電気ではカーバイドとカーボンの伸びが著しくなり、1938年には電気化学事業の収入が電気事業の収入を上回った。このため揖斐川電気株式会社という社名は社業の実態とそぐわないものとなり、1940年1月、商号を揖斐川電気工業株式会社に変更した。
  その間、1937年に日中戦争が始まると、日本の経済は戦時体制に移行した。そのための最高法規として1938年に「国家総動員法」が施行され、同時に「電力管理法」が施行されて、ついに電気事業の国家管理が始まった。発送電施設ならびに配電施設のすべてを国家に現物出資しなければならなくなったのである。揖斐川電気工業は5つの発電所を持っていたが、実際には発電量の3分の2を自社の電気化学事業のために自家消費していたため、3つの発電所を自家消費用に残し2つを現物出資した。こうして1942年4月1日、揖斐川電気工業は創業以来の電力供給事業を廃止し、電気化学工業を事業主体とする新たな企業として歩みを開始することになったのである。

カーバイドとカーボンの進展

  戦後、揖斐川電気工業は発電所や工場の一部が戦災に見舞われたもののいち早く生産を再開することができた。政府は鉄、石炭、肥料を三重点産業として取り上げたが、これらと関連の深いカーバイド、化学肥料、合金鉄などの事業が幸先の良いスタートを切った。
  カーバイドは石灰窒素の原料として増産され揖斐川電気工業復興の大きな力となったが、1950年代後半の高度成長期に入ると、新たな用途として塩化ビニールの原料に利用されるようになった。その結果、揖斐川電気工業のカーバイド生産量は1955年の3万4,000トンから1964年には12万6,000トンへと著しく増加した。また1949年には、カーバイドを原料とする有機合成化学分野への進出を目指してメラミンの研究に着手し、1954年10月、月産20トンの設備で生産を開始。さらに1960年からは初の加工品としてメラミン化粧板の製造を開始し、建材事業へと進出した。
  カーボンについては、戦時中、探照灯の光源用カーボンを揖斐川電気工業がほぼ独占的に生産していたが、戦後、軍需向けの生産が中止となってからは映画用カーボンの需要が急激に増加した。揖斐川電気工業のカーボンは1950年代には「イビガワカーボン」のブランド名で映画用カーボン市場のトップブランドとなり、1955年以降も一層の伸びを示していた。しかしその隆盛も1950年代末までで、テレビの急速な普及とともに映画の人気も陰りを見せ始め、カーボンの需要もしだいに落ち込んでいった。1960年代に入ってからは映画用カーボンに代わって溶接作業に使われるガウジングカーボンが伸び始め、揖斐川電気工業はこの分野でもトップの座を確立した。

電子産業への脱皮

  第2次世界大戦中に電気事業が国家管理となり、創業以来の電力供給事業を廃止して、電気化学工業による素材メーカーとして再出発を図った揖斐川電気工業。やがて高度成長期を迎えて事業は順調に進展してきたが、大正時代からの古い製品には刻々と寿命が近づいていた。石油化学工業の発展で塩化ビニールはカーバイドよりもコストの安いエチレンで生産されるようになり、そこにOPEC(石油輸出国機構)の石油値上げによる電気料金の高騰が追い討ちをかけた。もともと揖斐川電気工業は、電力事業の余剰電力による電気炉事業を中心に発展してきたのだが、電力消費量の多い電気炉事業には、電気コストの高騰が大きな打撃となったのである。新たな事業として成型品原料としてのメラミンの伸長が期待されたが、やはり石油化学系のメラミン生産方法が実用化されコスト面で対抗することができず、71年、メラミンの生産にピリオドを打った。揖斐川電気工業に再び大きな転換期が訪れようとしていた。
  実際、73年のオイルショックが電力多消費型の電気炉事業に大きな打撃を与えた。揖斐川電気工業は事業体質の改善を目指して、今後強力に育成すべき事業分野の絞り込みを開始する。建材・カーボン分野で培った技術を活用できるプリント配線基板、電気炉技術を応用したセラミックファイバー、カーボン関連の特殊炭素製品の3製品が、それである。
  74年に初めてのプリント配線基板の工場が立ち上がり、新事業がスタートした。立石電機(現在のオムロン(株))からの受注を皮切りに、タイトーのインベーダーゲーム用基板などを経てデジタル時計の基板で事業は大きく飛躍した。その後パソコンや携帯電話などの基板でさらに事業は拡大し、96年には、半導体のプラスチックパッケージ基板がMPU最大手のインテル社の目にとまり供給契約を結ぶに至った。セラミックファイバーでは成型加工に力を注ぎ、自動車の触媒保持・排気系シール材として自動車関連の市場に進出を図った。また炭化ケイ素の用途として、ディーゼル車の排ガスに含まれる煤をほぼ100%捕集する黒煙除去フィルター(DPF)を開発したが、これは2000年からフランスのプジョー社に正式採用され、世界で初めてディーゼル車に搭載されている。こうしてオイルショック以降の変革は成功した。現在、「イビデン」の名は世界中で知られるものとなり、特に電子関連の分野では絶大なネームバリューを持つに至っている。

変転と発展

  揖斐川電気工業は、82年に創立70周年を迎え、これを機に「イビデン株式会社」と名称を変更した。当時はCIブームで、社名やロゴマークを変える企業が続出していたが、イビデンの場合はこうしたブームとは一線を画して、社名変更は大きな意味を持っていたように思える。
  電力供給会社としてスタートしたイビデンは、戦時中の電力国家管理によって事業基盤の変更を余儀なくされ、電気炉技術を応用した電気化学事業で再スタートする。しかし70年代以降の石油化学工業の発展によって、戦前からあった4基の電気炉は91年を最後にすべて火を消し、第3の創業期ともいうべき大きな業態転換を迎えることとなる。まさに変転の歴史である。82年の社名変更は、今日ある電子産業のイビデンへと姿を変えるスタートの時期に当たり、「電気工業」や「電化」という文字が社名から消えたのは、イビデン史上の必然であった。
  「イビデン株式会社」という少々不器用そうな名のとおり、イビデンはこつこつと手探りで時代を切り開いてきた。ますます変化が加速するこれからの産業界で、その芯の強さは非常に貴重な特質である。





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