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2003年夏号 Vol.62 |
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「自働」の思想に込められた優良企業のDNA
株式会社豊田自動織機 |
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始祖
豊田佐吉翁 |
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トヨタグループの始祖、豊田佐吉翁の自動織機。
そのDNAは、やがて世界のブランド「TOYOTA」へと発展する。
グループの源流とも言える豊田自動織機の歩みをたどりながら、
脈々と受け継がれる優良企業の原点を探ってみたい。
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| 大英科学博物館に常設展示されたG型自動織機 |
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大英科学博物館に常設展示されたG型自動織機
1857年に創設された大英科学博物館は、科学・技術の啓蒙を基本理念とした世界有数の科学博物館である。2000年6月27日、この博物館に「現代社会の形成」というギャラリーがオープンし、エリザベス女王を迎えてオープニング・セレモニーが行われた。これは産業革命以降、250年の文化・技術史に焦点をあて、人類の工業化・産業の歴史において、世界初の偉業を成し遂げた技術を中心に展示するギャラリーで、スティーブンソンの蒸気機関車ロケット号やアポロ10号の司令船などが展示されている。
そのなかに、唯一動態展示される織機こそ、豊田自動織機の始祖、豊田佐吉翁が発明し、完成させた世界最初で最高性能の完全なる自動織機である。超高速でオートマチックに布を織るようにしか見えないこの機械の、どこがそれほど革新的だったのか。その答えに、トヨタグループの今日の姿に至る最大の要因が潜んでいる。
完全なる自動織機の発明・完成
豊田佐吉翁は、1867年(慶応3年)、現在の静岡県湖西市に生まれた。幼少時代から優れた資質を持ち、13歳を過ぎた頃より新聞・雑誌を読みふけり、国家や社会、人生などについて深く考えこみ、何か成しうる国家的事業は無いかと考慮を重ねる毎日だった。1885年(明治18年)、18歳の時に専売特許条例が公布され、一生を通じて発明事業に没頭することに決め、それ以来、発明を志した。そうして、最初に原動力を案出しようと永久・無限動力の発明にとりかかった。しかし、なるべく早く、国・社会のためになるものを、との思いから、当時政府の主導で機械化され大規模に行われ始めた糸紡ぎ以上に、作業負荷の高い織布こそ機械化して、大仕掛にする必要があるとの考えのもと、動力機械の発明・研究に専念した。
ただし、当時の織布業の経営実態などを考慮して、まず簡単で身近な手織機から着手し、苦労の末に1890年(明治23年)「豊田式木製人力織機」を発明し完成させ、初めて特許を取得した。
しかし、人力織機では能率に限界があることから、再び当初から目指した動力織機の研究に着手し、1896年(明治29年)、遂に日本で最初の動力織機である「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功した。この発明により佐吉翁の工場には、時の総理大臣をはじめ、政府高官ほか名士多数が訪れて惜しみない賛辞が送られた。なかでも大隈重信伯からは、「発明という仕事は、外国人と知能の戦争をすることである、負けをとらないようにしっかりやってくれ」と激励があり、さらに、従業員に金一封が授与されたという。
こうして32歳の佐吉翁は日本一の織機の発明者として全国に謳われるようになる。この高い生産能力をもつ動力織機は、瞬く間に広く普及し、時流に先んじた発明・完成で、日清戦争で疲弊した国家財政の建て直しという、国策の遂行に大きく貢献した。1899年(明治32年)12月には、三井物産より要請があって、織機の製造販売に関する契約が結ばれ、合名会社井桁商会が設立された。佐吉翁の発明・研究はさらに着々と進み、1901年(明治34年)10月には経糸たていと送出装置の特許を出願する。この送出装置は現在も使用されている装置の原型をなすもので、画期的な発明であった。その他にも織機の自動化に向けた重要発明に成功し、試験研究と創造を重ねていった。
そうして佐吉翁は「発明の足場」として、1911年(明治44年)に豊田自働織布工場(後の豊田自動織機製作所の栄生工場で、現在は産業技術記念館)を設立し、研究および発明、創造を重ねた。発明上の信念とする「創造的なものは、完全なる営業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」に基づいて、紡織一貫の大規模で長期の営業的試験、研究を操り返した。そのうえ更に、より完全なる試験を行うため、新たに愛知県刈谷町に営業的試験工場を設立した。
そして1924年(大正13年)11月、佐吉翁は遂に、世界最初で最高性能の完全なる「無停止杼ひ換がえ式しき豊田自動織機(G型)」を誕生させた。このG型自動織機は、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく、円滑に杼ひを交換して緯糸よこいとを補給する完全なる自動織機であった。この自働織機は、従来の織機の15〜20倍以上という画期的な生産性と合わせて、織物品質も大幅に向上させた。
このG 型自動織機の発明・完成は、国際労働会議の決議による工場法の改正、「女子・年少者の深夜業の禁止」と世界的な不況克服の産業・経営合理化対策など、時流に先んじたものであった。国家の危機を救って、産業革命にも等しい発明を遂げさせ、広く各国の繊維産業の発展に大きく貢献し、発明を目指した佐吉翁の思想は見事に実現された。
人偏のついた「自働」の思想へ
佐吉翁が究極の発明目標としたG型自動織機が1924年(大正13年)11月に誕生し、1925年(大正14年)11月、第1号機が完成した。これが、事実上の株式会社豊田自動織機製作所の誕生となった。自動織機を量産する新工場の用地は刈谷の試験工場に隣接した場所に決定、1926年(大正15年)11月18日、登記が完了して株式会社豊田自動織機製作所が創立された。
「発明の足場」とした豊田自働織布工場の設立から、実に15年目のことである。ここである違いにお気づきの読者もいるかもしれない。それぞれにある「働」と「動」の違いである。佐吉翁は「発明の足場」となったこの工場の名前を「自動」ではなく「自働」としていたのだが、その「自働」とは何か、である。
佐吉翁の自動織機は、自働杼換装置や緯糸切断自動停止装置をはじめ自働化・保護・安全等の24に及ぶ特許があり、それらは不良品を未然に防ぐ装置であった。後工程に不良品を送らない佐吉翁の自動織機は、驚くべき生産性と品質の向上をもたらした。オートマチックに動き続けるのみならず、無駄を出さないように機械自らが止まる。機械に人間の知恵を付与するその考え方が、まさに人偏のついた「自働」なのである。
国産自動車の開発
1923年(大正12年)、関東大震災で鉄道の機能が麻痺した時、復旧に重要な役割を果たしたのは自動車だった。それ以降、外国車が非常な勢いで輸入されるようになる。「一人一業」を説く佐吉翁は、息子・喜一郎に次代の事業として国産自動車の製造を勧めていた。当時、豊田自動織機製作所の常務だった喜一郎は、外国車の活躍の影で自動車製造の準備を進め、1933年9月1日、豊田自動織機製作所に自動車部門を設置、1935年大型乗用車試作第1号(A1型)が完成した。国策上の要請に応え、トラックとバスの製造にも同時に着手。1935年11月には、東京芝浦で一足先に量産体制が整ったトラックを一般公開。次いで生産が軌道に乗り始めた乗用車についても、1936年9月14日に、東京丸の内の東京府商工奨励館で大衆乗用車完成記念展覧会を開催した。
この発表会翌日の9月15日、豊田自動織機製作所は日産自動車株式会社とともに自動車製造事業法による許可会社に認定され、自動車製造事業の基盤が名実ともに確立されたのである。
国策は自動車事業発展のために急速な増産体制を要望していたが、当時、豊田自動織機製作所の事業は拡大の最中にあり、リスクの多い新規事業への大量資金の投入には慎重を要した。しかし一方で、自動車の本格的な生産を目指して準備が進められ、1937年8月27日、自動車部門が分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社が設立された。
紡織機製造から事業領域の拡大へ
豊田自動織機製作所は1933年の自動車部門の設置と同時に製鋼事業にも着手、以後、織機・紡機・自動車・製鋼の4部門で発展を遂げる。現在の姿である、コングロマリットの片鱗をうかがわせるようになるのはこの頃からだ。
戦後は、GHQ(連合国総司令部)が輸入を認めた米、小麦、綿花、石油、塩などの支払いとして行う見返り輸出用に、織機800台の生産命令を受け、これを契機としていち早く紡織機の製造再開を果たした。これ以降、1950年から1951年にかけて豊田自動織機製作所の紡織機生産は未曾有の活況を呈するが、朝鮮戦争が終結すると反動不況の影響で一転、紡織機生産は減少を余儀なくされた。
こうした状況に対処するため、経営の合理化が行われ、経営近代化へ向けての動きも始まった。それとともに、将来に備え、新事業、新分野への進出の準備が進められた。その手始めとなったのがS型エンジンの製作である。
1952年、トヨタ自動車工業の小型自動車に搭載するためのS型エンジンの生産を開始し、1955年、奇しくも最初に自動車部門が設置された日と同じ9月1日に、車両関係事業を扱う車両部門が設置。S型エンジンは商用車トヨエースに搭載され月産2,000台を生産する盛況ぶりであった。
一方で、このエンジンを利用した各種新製品の研究も進められ、フォークリフトの製作が始まった。1955年4月に1号車が完成して以来、フォークリフト事業は著しく成長し、現在は世界No.1のシェアを獲得するに至る。
また、車両部門の発足と同時にエアコンの研究も始まり、やがてカーエアコン用コンプレッサーの製作が事業として立ち上がった。1959年にはトヨペットクラウンへの搭載を目的に列型3気筒のCC3型コンプレッサーを開発。「いかに冷やすか」に始まった研究開発は、電子制御化、高効率・省燃費技術などを向上させ、1997年には生産累計1億台を突破した。海外での展開も拡大し、フォークリフト、自動車組み立てと並ぶ事業にまで成長してきている。
こうして、豊田佐吉翁の自動織機の発明から始まった繊維機械製造会社は、時代の要請に応えた事業領域の拡大によって変貌を遂げ、大きく成長していくことになる。
グローバルプレーヤーとしての羽ばたき
現在の豊田自動織機は、自動車部門、産業車両部門、繊維機械部門、エレクトロニクス部門などを擁する、いわば多角経営の巨大企業。そして、ますます激化するメガ・コンペティションに備えた経営戦略を打ち立て続けている。
2000年6月には、産業車両部門において、世界的なM&Aを実施し、屋内用フォークリフト分野で世界トップシェアを誇るスウェーデンのBTインダストリーズ株式会社を完全子会社化した。外国人従業員が一気に約7,500人も増え、連結ベースの従業員数だと約半数を外国人が占めるという状況だ。従来から世界的に確固たるポジションを築いてきたカウンターバランスフォークリフトにBTインダストリーズ社の商品を加え、グローバルな視点で世界の顧客ニーズに応えられる体制を確立、世界のトップシェアの座を築いている。
一方で、1956年のフォークリフト発売以来、開発・製造は豊田自動織機、販売はトヨタ自動車という連携のもと、フォークリフトやその周辺の物流(ロジスティクス)システム事業は発展を遂げてきた。2001年4月、豊田自動織機は、トヨタ自動車のL&F(ロジスティクス&フォークリフト)販売部門を譲り受け、自社内に「トヨタL&Fカンパニー」をスタートさせた。競争が激化するなか、トヨタグループとして、開発・製造・販売を一貫して豊田自動織機が担うことによって、世界No.1の総合物流機器・システムメーカーとしての地位を盤石にするという狙いが、そこにはある。
こうして各事業がそれぞれに発展を遂げ、2002年の世界シェアは、エアジェット織機39%、フォークリフト25%、カーエアコン用コンプレッサー38%と世界トップを誇る。さまざまな異なる事業を手がけながら、世界でトップシェアを握る製品を3つも持っていることは驚異である。
生き続ける佐吉翁の精神
このように、今や世界に冠たるトヨタグループ、その成長の原点をたどると、始祖、豊田佐吉翁の「自働」の考え方に行き着く。その生涯で、実に119件もの特許を取得し、それぞれ世界20カ国で特許を取得。1985年には「日本の偉大なる発明者10人」に選ばれた佐吉翁。すべての動力化への発念は、国家のため、社会のため、人のためにあり、そして人の知恵をもって無駄を排除し、絶えず動き続ける「自働」の思想は、ものづくりの基軸として、今なお受け継がれ続けているのである。
1935年、佐吉翁の六回忌にまとめられ発表された「豊田綱領」は、全トヨタグループの全経営者、全従業員のよりどころとなってきた。その精神は時代の変転にもゆがめられることなく、言葉は古くともその内容はいつの日も新しく、発展を願う人々の間で受け継がれ、今日の繁栄と団結の基礎となっているのだ。
一、上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし
一、研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし
一、華美を戒め質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し報恩感謝の生活を為すべし
(「豊田綱領」豊田自動織機40年史より)
企業は人なり、である。そして、豊田自動織機自身の人格ともいうべき企業文化は、こうした思想を今に伝えている。佐吉翁を支柱とする家族のような血の通った企業であることが、この時代に好調であり続ける鍵なのかもしれない。株式会社豊田自動織機という企業に、日本の希望が見える思いである。
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