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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1999年6〜7月号 Vol.38
 

『産業魂』で世界のブランドに
キッコーマン中興の祖 二代茂木啓三郎

二代茂木啓三郎翁


下総・野田で醤油づくりがはじまったのは、
400年以上も前のことである。
大正6年(1917)、醤油醸造家8家が合同して
野田醤油株式会社が生まれた。
以来、80年あまりの時が流れた。

伝統を重んじる個人醸造家の集合体が、
時運に竿さして近代経営に脱皮し、
世界のブランド「キッコーマン」が育った。

昭和14年(1939)に、紀元2600年記念事業として 建設された御用醤油醸造所内の仕込み桶。 もろみは、ここで春夏秋冬を過ごして育つ。

水運の要ではじまった醤油づくり

  醤油の渡来は諸説あるが、8世紀に唐の僧・鑑真が「醤」の一種である「味醤(なめ味噌の一種)」を日本に伝えたのが最初ともいわれる。鎌倉時代には紀州(和歌山)湯浅で「たまり醤油」状のものが生産され、社寺の境内などで売られたという。織豊時代にはかなり日常的に使用されていたようだ。
  関東では、永禄年間(16世紀半ば)以降、下総(千葉県)の野田、市川、銚子などで醤油づくりがはじまったと伝えられ、江戸幕府が開かれてから本格化した。キッコーマンの祖となったN梨兵左衛門と茂木七左衞門が野田で醤油や味噌をつくりはじめたのは、寛文年間(1660年前後)のことである。茂木家には、大坂夏の陣で戦死した豊臣方の武将の未亡人が、関東に移って醤油づくりをはじめたという伝承が残されている。
  野田は水運の要であった。鬼怒川、渡良瀬川などが利根川に集まり、新たに江戸川が開削されたことで、北関東の穀倉地帯から大豆・小麦が、江戸湾に面する行徳からは塩が運ばれてきた。おりしも、江戸では空前の人口流入がはじまっており、野田は全国一の醤油生産地に発展していった。幕末の野田の生産高は3万8,600石(約7,000kl)に達していたという。

「亀甲萬」を統一商標にする

  明治になってからも、野田の醸造家は切磋琢磨を怠らず、各地の勧業博覧会で最高賞を取るなど、品質の高さが評判を呼んで生産量は着実に伸びていった。主な醸造家は、ほとんどがN梨、茂木一族だったので結束も固く、野田醤油醸造組合を組織して、明治33年(1900)には銀行や鉄道事業も開始した。明治37年にはビタミンB1発見者である鈴木梅太郎博士の指導のもと、野田醤油醸造試験所(研究所)を設置した。
  大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発すると、大戦景気で需要が急増したが、その一方で、もうひとつの産地である銚子の醸造家も交えて競争もいっそう激化してきた。そこで、無用な競争を避けるため、大正6年にN梨、茂木一族8家が合同して、野田醤油(株)を設立した。初代社長には、六代茂木七郎右衛門が就任した。当時、一族の商標は200種以上もあったが、この合同にあたって、茂木佐平次家の「亀甲萬」が統一商標になった。

時運ニ竿サスモノハ栄フ

  会社組織になったといっても、各家には長年培ってきた伝統があり、一朝一夕には新組織、新体制に移行することは難しく、実態としては個人経営の集合体にとどまっていた。そのため、近代企業に脱皮するための障壁のひとつとして、労働問題に直面するのは当然の帰結だったといえよう。
  大戦が終了した大正7年には世界的に労働運動が高まりをみせ、日本でも各地で争議が発生した。景気は急速に冷え込み、米騒動が全国に広がるなど、社会的に不安定な時期にさしかかっていた。
  野田醤油では、大正8年に賃上げ交渉にからんで最初のストライキが起きた。大正10年には正式に労働組合が組織され、その後、しばしばストライキが行われた。しかし、醤油の需要は順調で、製樽工場を新設し、大正12年9月の関東大震災でも大きな被災を受けることなく乗り越えることができた。
  このように事業規模が拡大してくると、一族中心の経営では立ちいかない状況が出てきた。そこで大正13年に新しく野田醤油醸造(株)を設立し、これに野田醤油(株)、姉妹会社の万上味淋(株)、朝鮮・仁川にあった日本醤油(株)を吸収合併させたうえ、翌年、社名変更して「野田醤油株式会社」として、株式公開に踏み切った。
  七郎右衛門社長は、会社の主義方針の訓示の中で「時運ニ竿サスモノハ栄エ逆フモノハ亡ブ」という言葉を掲げ、企業と社会との関係を説くとともに、近代企業への脱皮を高らかにうたった。設立と並行して第17工場が竣工、昭和2年(1927)には本店新社屋が落成、定年制、給与規定など諸制度を着々と整備していった。

大争議を経て生まれた『産業魂』

  昭和2年2月、西日本で金融恐慌が発生した。3月には東京に波及して株式市場が大暴落、休業する銀行も相次いだ。そうしたなか、新生野田醤油では、待遇改善要求に端を発した問題が、労働運動史上空前の大争議に広がっていった。会社は臨時工員を大量に雇って事業を継続し、組合側も抵抗を続けたため、紛争は実に翌年春まで218日におよんだのである。逮捕者も出るきわめて不幸なできごとではあったが、この争議によって旧弊が一掃されたともいえよう。
  争議の解決覚書調印にのぞむ経営側の末席に飯田勝治の姿があった。後に社長に就任し、キッコーマンを世界のブランドに発展させることになる二代茂木啓三郎である。
  飯田勝治は、明治32年(1889)に九十九里浜に近い千葉県富浦村(現・旭市)の素封家に生まれた。成東中学(現・成東高)から東京商大(現・一橋大学)に進み、産業革命史の権威だった上田貞次郎教授のゼミに入った。『議論に走らず、実際に泥まず』、理論と実際の融合を説く上田の勧めで、大正15年に野田醤油に入社した。労使問題で揺れる当時の工場について、彼は、後年、『私の履歴書』(日本経済新聞連載)の中で、「ボヤが起きても従業員が消火に協力しないほどモラルが低下していた。形ばかり会社になっても、経営に責任と哲理が欠け、労働に自覚と信条なし」という趣旨のことを語っている。この改善に向けて、九代茂木佐平治常務(後に第三代社長)のもとで、「争議は争議、営業は営業」と割り切って働いた。
  争議が解決した昭和3年(1928)、七郎右衛門社長は、社是として『産業魂』を制定した。「経営の目的は国家の隆昌、国民の幸福増進。人間と人間との互助・相愛の確立が経営の根本」というのが骨子だが、これを具申したのが飯田であった。
  そして、昭和4年、争議終結を見届けて七郎右衛門社長が逝去。第二代社長に十一代茂木七左衞門が就いた。飯田は、この年結婚して、初代茂木啓三郎の養子に入り、昭和10年に茂木啓三郎家を継承した。
  初代啓三郎は、若き日に勝海舟の家に寄遇したこともあるほどの進取の精神に富んだ人で、分家して市川市行徳の工場を譲渡され、ボイラー、もろみの圧搾機械などの新設備・新技術を積極的に導入した。そして、その技術を惜しみなく業界に公開した。後年、事業化したばかりの味の素に販売ルート開拓の協力を頼まれた時も、無償で協力している。まさに、『産業魂』の実践者であった。

技術を公開し「業界とともに栄える」伝統

  野田醤油では、昭和11年にキッコーマン・ソースを製品化。経営危機に瀕したヒゲタ印の銚子醤油の再建も担った。
  昭和14年には、紀元2600年記念事業として宮内省御用達の御用醤油醸造所(通称「御用蔵」)を建設した。長引く不況に加えて戦時色が強まるなかで「醤油の質を落としてでも量を確保せよ」という声に抗し、御用蔵では、伝統の醸造技術で醤油が製造された。もちろん、市場に出す製品の品質も大切にしたので、「亀甲萬」の配給時には長い行列ができたという。
  しかし、国内では原料不足がさらに深刻化していった。そうしたなか、野田醤油では、製品の歩留まり向上を図った。また、舘野正淳、梅田勇雄らが、南方から入ってくるコプラミール(ココヤシの果肉を搾油した滓)で麹をつくり、醤油の搾り滓を再活用して醤油を醸造する「新式醤油」の開発に成功した。当時普及していた化学合成のアミノ酸醤油よりも風味に優れたこの新式醤油の醸造法も、時を経ずして業界に公開された。
  昭和20年、戦火はおさまったものの原料不足は続き、GHQでは「主食として日本に供している貴重な大豆を、歩留まりの劣る醸造醤油用には回せない」という理由で、多くをアミノ酸醤油業者に回そうという動きが出てきた。そこで、再び舘野らが研究を重ね、短期間醸造とアミノ酸醤油並みの高歩留まりを実現した「新式二号醤油」の醸造法を完成した。この時、常務になっていた二代茂木啓三郎は、窮地に立つ醤油醸造業界の要請に応えて、特許を独占することなくその醸造法を公開したのである。
  醸造醤油の理解者であったGHQ経済科学局のアップルトン女史は「生活に関わりの深い醤油の問題は日本人が決めればいい」という立場だったが、この新醸造法の成果を見て、醤油醸造業界に原料を回す決定をくだした。(従来、アップルトンが醸造醤油を追い詰めたとする説が流布されていたが、茂木啓三郎翁遺稿集『照干一隅』を監修した佐藤良也氏は、むしろ理解者だったと否定している)
  「新式二号醤油」の発明は、日本発明協会の最高賞・恩賜発明賞を受賞した。その後も、野田醤油では、木綿に代わるビニロン瀘布の実用化、新麹菌の発見などの技術革新が続いた。画期的なのは昭和30年の舘野らによる「N.K式蛋白質原料処理法」の開発である。従来は蒸した大豆を自然冷却していたものを回転羽式冷却とし、これに、即日蒸煮、即日盛込、回転式蒸煮缶、真空冷却などの要素技術を集大成したものが「N.K式蛋白質原料処理法」で、醤油の完全なる工業製品化を実現するものであった。この足かけ8年にもわたる研究成果も、前例と同様に特許公開された。まさに、「業界とともに栄える」産業魂の発露であった。

世界の「オール・パーパス・シーズニング」

  キッコーマンの欧米への輸出は、小規模には戦前にも行われていたが、本格的には昭和30年代からである。
  米国最大のスーパー「セーフウェイ」のサンフランシスコ店に納入して間もない昭和31年、渡米した茂木啓三郎は、地元紙に「キッコーマンはオール・パーパス・シーズニングだ」という記事を発見して感激した。季節の意味から派生した“シーズニング”とは調味料の意味だから、「万能調味料」ということになる。啓三郎はこの事実を中野栄三郎社長に伝え、輸出用ラベルに「オール・パーパス・シーズニング」と記載するとともに、テレビ広告を積極的に展開した。「キッコーマン」のブランド名は西海岸に急速に浸透し、そのまま醤油(本来はソイ・ソース)の代名詞になった。
  啓三郎は昭和37年に社長に就任したが、その前後、「デルモンテ トマト製品」「マンズワイン」などの新事業を開始し、さらに醸造研究から生まれた蛋白質分解酵素「モルシン」をもとに医薬品事業にも進出して多角化を図った。
  そして、東京オリンピックが開かれた昭和39年にキッコーマン醤油(株)に社名変更した。事業を多角化しても「醤油」の文字を残したのは、醤油醸造業の原点を忘れないためだと啓三郎は後に語っている。その精神は、世界100カ国で愛されるブランドに発展し、キッコーマン(株)となった今日も変わることはない。
  ひたすら守られてきた本醸造をつくり続ける精神は、「特選丸大豆しょうゆ」などの製品に生かされている。

  「キッコーマン」を育てた人々は数知れず、誌面に尽くせない。本記事では、個人経営の醸造家が集まって近代企業に発展した足跡をトレースすることに努めたため、登場人物を最小限にとどめたことをお断りしておく。

取材・大喜三郎 撮影・山田勝巳
取材協力 キッコーマン株式会社