メニュー部分をスキップ
ネットアイアール
 投資家と企業情報を結ぶIRポータルサイト サイトマップ English
IPO トップインタビュートップインタビュー会社説明会ビデオライブラリー株主優待IRマガジンNOMURAグループ
 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載
IRマガジン
IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1998年10〜11月号 Vol.34
 

いま、ふたたび開拓者精神を
日立製作所創業者 小平浪平

若き日の小平浪平
(明治35年)


世界屈指の総合電機メーカー日立製作所。
その出発は、鉱山の機械修理工場だった。
自主技術を志した小平浪平が製作した
3台の5馬力電動機から90年の歴史が始まった。
いま、日立製作所は、巨大ゆえの悩みに直面して、
大胆な変革を始めようとしている。

「第二の創業」と位置づけられるその変革は、
小平浪平の開拓者精神の復活にかかっている。

3台の5馬力電動機はすべて現存している。
なかでも、日立工場内に復元された「創業小屋」に
動態展示されている1台は、数年前まで現役であった。

歴史的な製品が並ぶ
小平記念館内部

如何にして大々的事業を為さん

  日立市街から宮田川に沿って山道をいく。日立製作所山手工場の脇を抜け、日鉱金属の製錬所を過ぎたあたりから渓谷の様相になる。さらに登っていくと、本山トンネルの左手前の山腹に、陽光を浴びてシルエットになった櫓が姿をあらわした。ここが、日立鉱山の発祥の地である。
  明治38年(1905)、久原房之助は、当地で細々と銅を採掘していた赤沢鉱山を買収した。久原は「山相に惚れたからだ」と語ったが、先年、廃鉱寸前だった藤田組小坂鉱山を、竹内維彦が開発した新式の製錬法を導入して立て直したという自信があった。果たして、本山には次々と良鉱が発見され、久原鉱業所日立鉱山(現、ジャパンエナジーのルーツ)はまたたくまに日本有数の銅山に発展した。ここで、工作課長を担当していたのが小平浪平だった。
  小平浪平は、明治7年、栃木県下都賀郡の素封家に生まれた。父の惣八は、塗料工場などに手を出しては失敗し、多額の借財を残して明治23年に病没した。兄の儀平は第一高等中学校(後の第一高等学校)に通う秀才だった。浪平も東京英語学校に通っていたが、最早二人を遊学させることは困難だった。儀平は学校をやめ、地元の銀行に勤めた。
  翌年、浪平は第一高等中学校に進んだ。兄の断念と引き換えの進学だったが、テニスに興じ、ボートに野球に明け暮れる日々だった。旅行も盛んにした。美術にも関心があった。そんな浪平だから、学業は順調とはいえなかった。東京帝大電気工学科に進んだものの、写真機に凝って落第も経験した。その嫌悪感で、第一高等中学入学以来したためてきた『晃南日記』を絶筆した。
  その『晃南日記』に「余は元来空望を好まず。一畝の田、一歩の林、故山に帰臥して父老と相親しむは余が年来の宿望なりき。今は早其心なきなり、否無きに非ず、其望を達するの前に、如何にしても大々的事業を為さむと欲する念強くして、遂に故山に帰るの期を想ふに及ばざるなり。其大々的事業とは果たして何なりやは今に於て謂ふを得ざるなり」と記しているように、大望をもてあましつつも汲々と生きたくはないという気持ちが見える。そんな浪平を理解し励ましつづけた母の千代や儀平の慈愛にみちたまなざしも、この日記の行間から切々と伝わってくる。

日本人の手で自主技術の開発を

  明治33年、大学を卒業すると藤田組に入社し、小坂鉱山の電気技師として秋田に赴任した。ここで、久原房之助と竹内維彦との出会いがあった。  当時の鉱山は殖産興業のトップランナーであり、小坂、足尾、別子といった銅山は輸出の花形でもあった。鉱山では動力が欠かせない。明治19年に東京・京橋にアーク灯がともり零細な火力発電が始まった。明治25年に京都の蹴上で水力発電(80kw)が始まり、3年後に日本初の路面電車が京都市街を走った。鉱山や工場は長く蒸気動力が主だったが、ようやく自前の発電所を作ろうという時代だった。
  小坂鉱山での浪平の初仕事も発電所建設だった。発電所、水路、変電所などを設計・施工し、明治35年に止滝発電所が完成した。ところが、翌年、浪平は小坂鉱山を辞してしまう。発電所づくりに魅せられたゆえであった。おりしも、東京電灯が山梨県猿橋に本邦最大の1万5,000kwの駒橋発電所を計画していた。浪平は、まず経験を積むために広島水力電気に1年契約で就職し、新妻の也笑を伴って広島に移った。日露戦争が始まった年のことだった。
  明治37年、浪平は送電主任として念願の東京電灯に入社した。しかし、現実は発電機がドイツのジーメンス社、変圧器は米国のGE社、水車はスイスのエッシャウイス社製で、据付も外人技師の指導のもとで行わねばならなかった。無理もなかった。日本では、明治28年に芝浦製作所が25馬力電動機を完成し、石川島造船所がそれに続いたものの、主要な事業はすべて外国製品で占められていたのである。
  浪平は、大学時代の日記に「我国工場の幼稚なるに驚き……我国の工業振るわざれば、之を振るわしむるは吾人の任務なり」と記しているが、痛切に外国の技術に頼らずに日本人の手で自主技術を開発したいと思った。
  赤沢鉱山を買収した久原が「再び君の力を借りたい」といってきたのは、そんなおりだった。さらに運命的な出会いが明治39年7月に訪れた。甲府行きの列車に大学の同級生の渋沢元治(後の名古屋大学長)と偶然乗り合わせたのである。二人は猿橋の大黒屋旅館で夜を徹して語り合った。浪平は、久原氏の誘いを受けて日立に行く決意を語った。渋沢は電力事業の重要性を説き「東京電灯にとどまれば、いずれ大きな仕事ができる」と諫めた。しかし、浪平は自主技術の夢を熱く語り、最後は渋沢も思い通りやれと励ましたのだった。3カ月後、浪平は日立鉱山に赴任した。

5馬力電動機に託した創業の夢

  工作課長としての最初の仕事は、里川の中里発電所を完成させることだった。400kwだから駒橋発電所とは比べるべくもないが、すべて任せられた喜びがあった。設備づくりも多忙をきわめた。産銅量が増えるに従い、製錬所を本山から下った大雄院に移すことになったのだ。鉱石を運搬するコンベアや鉄索、製品を港に降ろす電気軌道などの建設に加えて、鉱山機械の修理で徹夜が続く日々だった。
  電力も不足するので、山中に適地を求めて石岡発電所を建設することになった。明治43年に1,000kwの仮発電所が完成したが、フランシス水車は自前で製作した。翌年には、さらに内作率を高めた4,000kwの新発電所が完成した。
  むろん、これだけの仕事をこなすには人材が要る。実習や工場見学でやってきた東京帝大電気工学科の学生たちが、浪平の魅力に接して続々と入社してきた。明治42年入社の高尾直三郎は、終生浪平を支える存在となった。翌43年には後に中央研究所所長となる馬場粂夫が入社した。
  その頃、大雄院の掘立小屋では、電動機の修理のかたわら、故障原因や製作方法の研究を地道に進めていた。そして、自分たちの手で設計を行い、紡ぎ車のような手回し機械を自作して巻線するなどの苦心を重ねて、ついに明治43年、5馬力電動機3台が完成した。早速、鉱山で試用してみると性能もよく、続いて200馬力電動機も製作した。
  これに自信を得た浪平は、久原に電気機械製造事業の許可を申し出た。久原は機械製造に関心を示さなかったが、所長の竹内維彦が助勢に立ってくれたので、ようやく認可され、同年暮れ、大雄院からさらに下った芝内に新工場を建設する運びとなった。それが今日の山手工場である。浪平は、国産の気概を込めて『日立』の社章を創案した。
  これをもって日立製作所の創業とする。

逆境に立ち向かって

  製作所の船出は、日露戦後の不況のただなかにあった。明治44年に茨城電気から変圧器を20台受注したものの、故障も多く、信頼性第一の鉱山はなかなか買い上げてくれない。ようやく翌45年夏に275馬力送風用電動機を納入することができた。その間、後に日立製作所を担うことになる秋田政一、池田亮二、森島貞一や、安川電機創業者の安川第五郎といった東京帝大工科出身者が続々と入社した。
  この創業時代で特筆すべきは、最初から厳密な原価計算を行ったことである。少ない予算をやりくりして鉱山の施設づくりを行ってきたなかから育まれたものだった。人材教育にも力を注ぎ、徒弟学校も早々に創設した。
  ある時、徒弟学校を出たのにライバル会社に入社した者があった。これでは意味がないと嘆く声を聞いた浪平は、「その生徒は農夫になったのではなかろう、技術を活かす道に進んだのだから無駄ではない」といったという。
  大正3年(1914)は飛躍の年になった。この年、欧州で第一次大戦が勃発、景気が上向いて電力需要が高まってきたが、外国製品の輸入が途絶したために国産品に目が向けられるようになったのである。
  しかし、注文に応えて大型製品をこなすうちに、力不足も明らかになってきた。材料も不足しがちで粗悪なものも出てきた。その結果、遮断器が破裂したり発電機が壊れたりすることが続いて、詫状を書くこともしばしばだった。
  原因を徹底的に追求し、実験を重ねて信頼性を高めることが、以後、製作所の理念になった。材料問題では銅線不足が深刻だったが、倉田主税(後の第二代社長)の「目の前にある銅を使って自前で生産しよう」という進言で、大正6年に電線工場をつくった。翌年には久原鉱業所の機械製作工場である佃島製作所を併合し、本社を東京に定めた。
  こうして、順調に発展してきた日立製作所だったが、大正8年11月、日立(山手)工場の変圧器工場からの出火で、精鋭の装置や大型仕掛品の多くを失った。
  火災現場を見回った浪平は、「諸君、思わぬ大火で私もほとほと途方に暮れます。いっそ事業をやめようかとも思わぬでもないが、私はこの事業の前途に相当の自信を持っている。これまで余りに順調にきたことのお灸だと思うから、大いに発奮しようではないか」と従業員に語った。

日本を代表する総合電機メーカーに

  大正9年、日立製作所は株式会社となって独立した。欧州大戦は大正7年に終結しており、不況の足音が迫っていた。拡張の一途できた久原鉱業の経営が厳しくなり、久原商事が倒産した。久原系の企業として日立製作所を見る銀行の眼もきつくなったが、原価主義に立脚した経営と好況時の収益を積み立ててきた財務体質が評価された。むしろ、久原系の日本汽船笠戸工場を買収し、電気機関車製造を開始する。この頃、長距離送電が可能になったことから大型の水力発電所計画が動きだし、本業も順調に発展した。
  大正12年9月に起きた関東大震災では、競争会社の工場が壊滅するなかで、日立工場はほとんど無傷で残るという僥倖もあった。日立製作所は、他地方の注文を断っても、京浜地区の復興を最優先した。それが、また新しい顧客をつくることにつながった。大正14年に完成した狭軌初の電気機関車のニュースは、遠くニューヨークまで伝えられた。翌15年には30台の扇風機が米国に初輸出された。昭和2年(1927)には電気冷蔵庫の開発にも成功した。
  大正から昭和へ、不況はいっそう深刻さを増し、経営に行きづまった久原鉱業は、久原房之助の義兄の鮎川義介に委嘱された。鮎川はまず莫大な債務を整理し、日本産業と名称を改めて株式公開で資金調達を図り、日産コンツェルンの基盤をつくった。これにより、恐慌で鈴木商店などの新興財閥が倒産するなかを生きぬいたのである。久原は政界に転じ、田中内閣の逓信大臣となった。
  日産コンツェルンの一員となった日立製作所は、日立に10万坪の土地を求めるなど積極経営を展開した。しかし、恐慌が広がるにつれ、さすがに電力余りで新規受注がほとんどなくなった。この苦境を救ったのが、昭和肥料(現・昭和電工)が持ち込んできた余剰電力を利用して硫安を国産化しようという構想だった。水を電気分解して作った水素と窒素を化合させてアンモニアをつくる反応槽を2,500台もつなげるプラントである。さすがに高尾も馬場もひるんだが、実験、試作、テストを繰り返して、ようやく昭和6年に全数を完成した。かつての大物製作の苦い経験が生きたのである。
  この成功で、日立製作所は蘇り、日本を代表する総合電機メーカーに発展していくのである。

 小平浪平は、昭和22年に公職追放の指定を受け、高尾副社長、馬場専務ら15名の役員とともに辞任した。ゴルフも旅行も断った。昭和26年6月に追放解除となり、7月に日立工場を訪れて「以和為貴」(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配った。8月に家族旅行を楽しんだあと、10月、78歳の生涯を閉じた。(文中敬称略)

取材・大喜三郎 撮影・山田勝巳
史料提供 株式会社日立製作所
日鉱金属株式会社
日鉱記念館





動画掲載企業一覧
決算説明会特集
株価・企業情報検索
社名・コード検索
社名またはコードを入力
条件検索
業種で探す
50音で探す
企業コードで探す
株主優待で探す
株主優待

新発売!雑誌「知って得する株主優待2008年版」

知って得する株主優待2008年版
今回は
「7日間マスター   投資のキホン 」を新掲載。
なるほど納得の一冊です。
ご購入は、「アマゾン」「bk1」「 ブックサービス 」で!
お詫びと訂正
2008年版の株主優待レポートはこちら
IR MAGAZINE
最新号2008年秋号
最新号2008年秋号 「株主総会
対話の『質』をめぐる考察」
・年間購読のご注文はFujisan.co.jpで!
フリーダイヤル0120-223-223
(年中無休・24時間受付)
プラグインダウンロード
Flash Player ダウンロード

Adobe Reader ダウンロード
Windows Media Player ダウンロード
Real Player ダウンロード
Copyright (c) 2004 Nomura Investor Relations Co., Ltd. All Rights Reserved. このサイトについてご利用の注意免責事項プライバシーポリシー
NIR 野村インベスター・リレーションズ株式会社