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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1998年8〜9月号 Vol.33
 

十年先を見通した眼
大原孫三郎

(3106 現・クラボウ株式会社)
青年時代の
大原孫三郎


大原孫三郎は立志伝の人ではない。
父祖から受けついだ財産をもとに、
倉敷紡績を育て、クラレを興し、
中国銀行、中国電力の礎をきずいた。
そうした実業を超えて、壮大な視野で社会を考えた人だった。
いま、フィランソロピーが盛んに語られているが、
「わしの眼は十年先が見える」が口癖だった孫三郎には、
百年先さえ見えていたのかもしれない。

「倉敷アイビースクエア」の煉瓦壁をおおうツタ。
暑気払いのために植えられたといわれ、
従業員を思う大原孫三郎のまなざしを感じる。

大原社会問題研究所
(大正9年頃)
倉紡記念館

放蕩の日々の果てに

  大原孫三郎は、明治13年(1880)に岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれた。
  大原家は米穀・棉問屋として財をなし、小作地800町歩(約800ha)、小作人2,500余名を数える倉敷一の富豪であった。明治を迎えて地元の殖産を託した倉敷紡績を設立するにあたり、孝四郎は初代社長に就いていた。
  大原家では二人の兄が夭折していたため孫三郎が跡継ぎである。遅くに生まれ身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられた。長じて、旧藩校の閑谷黌に入ったが、勉強嫌いなうえに寄宿舎生活が肌にあわず飛び出してしまう。
  明治30年、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学するも講義にはほとんど出ず、取り巻きに誘われるままに遊里通いの放埒な日々を送った。田舎の大金持ちのせがれと値踏みした高利貸しがどんどん貸し込んだから、たちまち借金の元利が15,000円にのぼった。今なら億単位の金である。さすがに大原家は姉婿の原邦三郎を始末に派遣したが、その最中に邦三郎が倒れて急死してしまった。孫三郎は謹慎の身となり、孝四郎の実家である藤田家に預けられた。
  孫三郎とて遊んでばかりいたわけではない。足尾鉱毒問題で友人と現地を視察したこともある。謹慎中、その友人から届けられた二宮尊徳の『報徳記』を耽読し、「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感激した。
  決定的な転機となったのは石井十次との出会いである。岡山の医学校を中退して医師をしていた石井は、クリスチャンでもあった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を創設した。その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動に包まれた。石井の事業を資金面から支えることになる。といっても石井は一時は1,200人もの孤児を集め、孤児たちが自立できるように宮崎県茶臼原に大農場を開いたりするような理想主義者だったから資金はいくらあっても足りない。それでも「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのだった。
  石井は孫三郎にも日記をつけることを勧めた。孫三郎は「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記した。放蕩の日々と横死した義兄への贖罪の気持ちがあったのかも知れない。石井の仕事は、今日、宮崎市の石井記念友愛社に引き継がれている。
  石井は結婚も勧めた。明治34年、石井スエ(寿恵子)と結婚する。孫三郎はいまだ21歳であった。

わしの眼は十年先が見える

  この年、孫三郎は倉敷紡績に入社した。小学校さえ出ていない職工が多いのに驚いた。そこで職工教育部を設立し、翌年には文部大臣の認可を得て工場内に尋常小学校を設立した。また、働きながら学ぼうとする若者のために倉敷商業補修学校を設立し最初の校長になった。地元の子弟を対象とした大原奨学会も始めた。
  石井の勧めで地元に新しい知識を呼び込む倉敷教育懇話会を始めたのはその翌年である。第一回日曜講演に招かれた山路愛山は、主催者が二十代の青年と知って仰天した。この懇話会はすぐつぶれるだろうという見込みに反して、24年間続き実に76回を数えた。講師に、徳富蘇峰、新渡戸稲造、大隈重信など日本を代表する知識人が名を連ねた。
  明治39年に社長に就任すると、まず飯場制度を廃止した。当時は口入れ屋が従業員の手配、炊事の請負、日用雑貨の販売を仕切り、法外なピンはねを行っていた。これを会社に帰属させるとともに、非人間的な集合寄宿舎をやめて分散式家族的寄宿舎を建設した。
  倉敷紡績は地元資本の集合である。こうした諸施策は株主の反発を招いた。しかし、孫三郎は「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切った。細井和喜蔵が『女工哀史』を書いたのは20年後の大正15年だから、いかに進んでいたかがわかる。
  むろん、孫三郎は経営者としても果断な施策で倉敷紡績を全国規模の会社に成長させた。大学や高専出身者を次々に採用し、前垂れの番頭中心の古い経営を一掃した。
  明治末年の日露戦後の不況では、大型合併による紡績業界の再編が進み、地方会社にすぎない倉敷紡績は飲み込まれてしまう危機に直面した。これに対して孫三郎は吉備紡績の買収に乗り出す。買収金額は46万円で倉敷紡績の資本金40万円を上回っている。重役や株主が反対するのを意に介さず、「事業に冒険はつきもの、わしの眼は十年先が見える」として、その後も次々と工場を拡張していった。自前の発電所もつくり、いち早く蒸気動力から転換した。
  孫三郎の読み通り、大正に入ると、第一次大戦の勃発により日本は空前の好況を迎える。倉敷紡績は先行投資が功を奏し、実に6割配当を実現する。四国にも合併・新設で工場拠点を築き、遂に業界大手にのしあがった。
  さらに、県下の銀行を統合した中国合同銀行(中国銀行の前身)の頭取となり、電力事業の統合を図って中国水力電気会社(中国電力の前身)も設立した。こうして孫三郎は、中国・四国きっての実業家といわれるまでになった。新事業にも積極的で、大正15年には、人絹事業の将来性を見抜いて倉敷絹織(現・クラレ)を設立した。

マスカットや白桃の生みの親

  孫三郎には大原家当主としての顔もあった。むしろ、大原家の財政は、地主としての収入が主であったろう。
  謹慎のおり、孝四郎は孫三郎に小作地の管理を命じたことがある。小作地を見てまわった孫三郎は、その窮状に接して「地主と小作人は同胞的関係にならないと平和を保つことはできない。そのうえで生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない」と強く思った。
  米の品種改良から始めた。小作人の子弟教育も考えた。大原奨農会をつくり農業改良資金を貸し出した。ところが、小作地を買い取って自作農になりたいものに融資すると発表するに及んで、近隣の地主から「大原は紡績で稼ぐからいいが、我々には死活問題だ」と猛反発をくらった。
  それで別の形を考え、大正3年(1914)に大原奨農会農業研究所(現・岡山大学農業生物研究所)を設立し、運営のために200町歩を拠出した。この研究所で岡山名産となるマスカットや白桃が開発されたことを特筆しておきたい。
  大正7年の米騒動が岡山に飛び火したときには、孫三郎は米廉売資金を町に寄付して倉敷での米価高騰を防いだ。このように経営者となっても、「天職のために財産を遣い尽くす」姿勢は変わらなかった。
  大正8年には、大原社会問題研究所を発足させる。小学校の同級に日本共産党設立に参加した山川均がいたことも影響したはずだが、石井十次が大正3年に没したことで救貧運動の限界を悟り、貧困の原因をなくすことが先決だと考えるようになっていた。ともかく、所長になってもらうべく河上肇を訪ねる。河上は「私のような危険人物のところに資本家のあなたが来てはいけない」とあきれつつも高野岩三郎を紹介してくれた。ここでも「金は出すが口は出さない」主義で通した。大原社会問題研究所はやがてマルクス経済学の中心となり、大内兵衛、森戸辰男などを輩出した。戦後は法政大学大原社会問題研究所となっている。
  大正10年には倉敷労働科学研究所をつくり、工場内の労働環境を改善すべく、工場内の温湿度管理やカロリー計算に基づく給食などを実施した。
  大正12年には、従業員のために倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)を設立し、一般市民にも広く開放した。病人は社長も工員も平等であるという考えで小児以外は個室をつくらず、見舞品ももらえない人があるという理由で持込禁止とした。入口に大きな温室を設けて病人が憩える環境をつくり、白い壁は圧迫感があると淡いピンクで塗った。

二、三人がいいということをやるべき

  昭和に入ると、未曾有の危機が訪れる。
  昭和2年(1927)に始まった金融恐慌は、世界大恐慌に連動して暗黒の大不況がやってきた。倉敷紡績も輸出不振が響き、創業初の欠損を計上した。役員報酬の減額、倉紡中央病院の独立などの合理化を図ったが、状況は悪化するばかりで、人員整理で労働争議も起こった。
  こうなると「研究所道楽」への批判が一挙に吹き出した。大原家が運営する大原農業研究所はともかく、治安維持法で逮捕者も出した大原社会問題研究所への風当たりが強くなった。しかし、孫三郎はどうしても存続させたかった。「片方の足に靴を履き、一方の足に下駄を履くのは難しい」と嘆きつつ、どちらも脱がずによたよたと歩き続けた。
  昭和5年には最愛の妻・寿恵子にも先立たれた。
  そして、昭和7年、ようやく為替が円安に転じて長い不況のトンネルを脱し、倉敷紡績も息を吹き返す。人絹ブームの到来で倉敷絹織は順調に発展する。再び、孫三郎の拡張主義が始まった。昭和10年には倉敷毛織を設立した。
  孫三郎は倉敷紡績第四代社長となる長男の總一郎に自分の経営哲学を説いている。
  「十人の人間のうち、五人が賛成するようなことは大抵手遅れだ。七、八人がいいといったらもうやめた方がいい。二、三人位がいいということをやるべきだ」。
  孫三郎は昭和14年に總一郎に一切をゆずった。晩年は、素朴な民芸を愛し、昭和18年に大原邸で臨終を迎えた。62歳だった。これほどの事業を成し遂げたというのに、「自分の一生は失敗の一生だった」と總一郎に語ったという。

わが国初の西洋美術館・大原美術館

  倉敷美観地区を歩く。大原家が財をなした時代の美しい蔵屋敷が並んでいる。掘割をはさんで大原美術館と向かいあうのが大原邸である。右手は孫三郎が病弱な寿恵子夫人のために建てた有隣荘。黄緑色の瓦が美しく地元で「緑御殿」と呼ばれ、長らく大原家の迎賓館ともなってきた。
  大原美術館は孫三郎の最後の社会事業となった。そのコレクションは、大原奨学会の支援で東京美術学校(現・東京芸術大学)に学んだ児島虎次郎が蒐集した西洋絵画がもとになっている。児島は、勧業博覧会美術展で青木繁、熊谷守一らの俊才をしりめに「里の水車」で一等になり、孫三郎から褒美にパリ留学を許された。大正8年、2度目の留学の際、児島は日本で学ぶ画学生のために絵画の蒐集を孫三郎に頼んだ。孫三郎は迷った末に許可を与えた。
  蒐集した絵は倉敷の小学校で展覧されたが、全国から人が集まり、駅前から行列が絶えなかったという。それを見た孫三郎は驚き、欧州の画商にさらに蒐集を依頼するが、集まった絵には満足できなかった。そこで、再度、児島に本格的な蒐集を命じ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロートレックなど印象派を中心にロダンの彫刻など教科書に載るような巨匠の作品が網羅されたのである。
  孫三郎が最初は躊躇しながら、3度目ではうって変わって積極的に蒐集を指示した背景には、繊維産業に身を置いて綿花などの先物を扱ってきた経営者の眼があった。第一次大戦後の欧州不況と円高を読み取り、今が西欧文化を輸入するチャンスだと判断して、千載一遇の好機をとらえた買いだった。まさに、先を見る事業家らしい大胆な決断を下したといえよう。
  児島は昭和4年に没するが、その翌年に大原美術館が建設された。わが国初の西洋美術館であった。大原美術館は、孫三郎が「私の一番の最高傑作」といってはばからなかった總一郎に受け継がれ、今日の隆盛につながっている。
  観光客でにぎわう路地を抜けた先に、倉敷観光の基地として人気を集める「倉敷アイビースクエア」がある。倉敷紡績の創業工場の跡地をホテルにした。中庭を囲む煉瓦壁は昔のままで、当時もツタにおおわれていた。倉敷労働科学研究所の発案で日除けのために植えられたものだという。この一角に倉紡記念館と児島虎次郎記念館がある。
  ちなみに、倉敷駅前のデンマークのおとぎの国「倉敷チボリ公園」も万寿工場の跡地である。(文中敬称略)

取材・大喜三郎 撮影・古城 渡
史料提供 倉敷紡績株式会社
財団法人大原美術館