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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2004年夏号 Vol.66
 

鉄は再び成長のシンボルとなるか
新日本製鐵株式会社

近代製鉄の父と呼ばれる大島高任


長く厳しい状況にあった鉄鋼産業が、
今、世界規模の大再編を経て活気を取り戻している。
日本を代表する製鉄会社として経済成長を牽引してきた新日本製鐵の足跡を振り返りつつ、
今後の展望を探ってみたい。

官営八幡製鐵所東田第1高炉火入れ式

スクープ

  1968年4月16日、富士製鐵の永野重雄社長は大阪での所用を終えて、次の出張先の徳島に向かうために大阪空港へ車を走らせていた。忙しい一日で、車には毎日新聞と日刊工業新聞の記者が同乗し取材が続けられていた。取材の途中、ふと、永野社長は八幡製鐵との合併の可能性をほのめかせた。記者は色めき立った。それが真実ならば、突如として世界屈指の鉄鋼メーカーが誕生することになる。八幡製鐵の稲山嘉寛社長に打診して確信を得た毎日新聞社は、急遽、翌4月17日付朝刊の1面トップでこの大スクープを報じた。
  同日午前9時45分、稲山社長は東京・丸の内の八幡製鐵本社で記者会見を行い、年内にも合併手続きに入る用意があることを発表、さらに5月1日には両社社長が共同記者会見を開き、両社の合併方針を正式発表した。当時、世界No.1のUSスチール社と肩を並べることから「世紀の大合併」といわれた、新日本製鐵誕生劇の幕開けであった。

近代製鉄業の発展

  そもそも八幡製鐵と富士製鐵は、同じ1本の木であった。戦前、多くの製鉄会社を合併して国策会社として設立された日本製鐵が、戦後の占領政策のなかで解体されて誕生したのが八幡製鐵と富士製鐵である。日本製鐵復元は、この時から両社の首脳陣に脈々と受け継がれてきた念願であった。新日本製鐵誕生までの日本における鉄鋼業の歴史をたどってみよう。
  日本の近代製鉄業は、1857年(安政4年)12月1日、岩手県の釜石で日本初の洋式高炉が操業を開始したことに始まる。黒船来航の翌年のことで、日本は海防を固めるために、大砲鋳造の材料となる大量の鉄を必要としていた。それまで日本の鉄は、「たたら吹き」と呼ばれる古来の方法で砂鉄と木炭を原料として作られていたが、炉内の温度が低いために鉄は固体状態で生成される。そのため取り出す時には1回ごとに炉を壊さなければならず小規模の生産しかできなかった。これに対して洋式高炉は、鉄鉱石を原料として高温で生成するため溶融状態で取り出すことができ、連続操業が可能となった。
  その後、明治新政府は釜石に官営の鉱山と製鉄所を建設するも軌道に乗らず、1885年(明治18年)、田中長兵衛という実業家が釜石鉱山を買い取る。翌86年(明治19年)には高炉操業に成功、87年(明治20年)に釜石山・田中製鐵所を創立した。そして94年(明治27年)、日本で初めてコークスによる銑鉄製造を成功させ、ここに近代製鉄業の灯がともったのである。
  この年の7月、日清戦争が勃発するが、列強諸国の脅威はその10年ほど前から強まっており、日本では軍艦や工場の建設のために鉄鋼需要が増大していた。しかし国内生産量はきわめて少なく、鉄鋼業の発展を期待する声はしだいに熟し、日清戦争を契機にその振興が急務となった。そこで政府は官営製鉄所の建設を計画し、1897年(明治30年)2月、背後には筑豊炭田が控え、海陸輸送にも便利である福岡県の八幡村を建設立地に決定。同年6月に開庁、1901年(明治34年)2月に、日本最初の大型160トン高炉に歴史的な火入れをして、官営八幡製鐵所は操業を開始した。これが現在の新日鉄八幡製鉄所の前身である。
  官営八幡製鐵所が生産を開始したとはいえ、まだまだ鋼材の供給は大半が輸入で賄われていた。特に日露戦争後の需要の増加は著しく、官営八幡製鐵所は3度にわたる拡張工事を実施したが需要増に追いつけず、民間資本による鉄鋼企業の勃興が必要となっていた。政府は1917年(大正6年)に製鉄業奨励法を制定し、営業税・所得税の免除、必要設備の輸入税の免除などの優遇措置を実施した。この優遇策と第1次世界大戦による好況で多数の製鉄会社が設立され、既存の製鉄会社は規模を拡張して民間製鉄所の生産能力は大幅に増大した。
  第1次世界大戦を経て、日本の工業水準は加速度的に高まり、工業化に欠かせない鉄鋼の需要もさらに増大した。さらに、量的にも質的にも鉄鋼の自給自足が強く望まれるようになった。しかし、官営八幡製鐵所には官営であるがゆえの種々の制約があり、かたや民間の製鉄所は中小企業が分立・対立して、いずれもこれ以上の発展は望めない状況にあった。加えて1929年の世界大恐慌に端を発する不況で生産費が割高となったことや、将来の需要増加に対応するためにも巨額の拡張資金が必要であった。こうしたことから、日本の製鉄業を強固にするためには、官営八幡製鐵所を中心として民間の製鉄所をひとつにする製鉄合同が必要だという機運が高まったのである。
  1933年4月5日、政府は、日本の製鉄事業の基礎を強固にし、豊富な鉄鋼の供給を行うことを設立の趣旨として日本製鐵株式会社法を公布した。それは高度な公共性を持つ半官半民の国策会社であった。こうして1934年1月29日、官営八幡製鐵所に、輪西製鐵、釜石山、三菱製鐵、富士製鋼、九州製鋼の5社が合同して日本製鐵株式会社が発足した。まず八幡、輪西、釜石、兼二浦の各製鉄所と富士製鋼所、二瀬業所により操業を開始し、さらに同年3月に東洋製鐵、36年に大阪製鐵が加わった。日本製鐵発足後、日本の鉄鋼需要は、主に軍需の拡大を背景にさらに上昇したが、日本製鐵は寄り合い所帯による摩擦もなく団結を固め、着々と増産を遂行して官民の期待に応えた。しかしこの大合同も、前述したように、第2次世界大戦後、GHQ(連合軍総指令部)によって過度経済力集中排除法の適用に該当するとされて分割が決定し、1950年4月1日、鉄鋼部門は八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社の2社となってそれぞれの道を歩むこととなった。

世界規模の競争力へ

  1955年に戦後の生産力水準が戦前の最高水準を超え、1960年に池田内閣が国民所得倍増計画を発表して、高度経済成長が始まった。重化学工業を中心とした設備投資や、自動車、造船、電機といった機械産業の生産拡大によって、鉄鋼需要は大幅に拡大した。この頃日本の鉄鋼業は、高炉の大型化と高炉操業技術を中心とした製鉄技術の進歩によって、出銑比・燃料比などから見ても世界最高水準に達していた。
  1960年代に入ると、日本経済の国際化は急速に進められ、東京オリンピックを控えた1964年4月、IMF(国際通貨基金)8条国への移行、OECD(経済協力開発機構)への加盟が実現し、それとともに資本の自由化が課題となってきた。こうしたなかで鉄鋼業は、常に需要を先取りした生産能力の拡大や、最新技術を駆使した効率のよい生産設備の増強に力を注いでいたため、生産設備が過剰になっていた。資本自由化の実施にあたって、世界規模の厳しい競争に対応し企業体質を強めるためには、投資主体を集約して大規模な計画投資を行う以外にないという考え方がしだいに大勢を占めるようになり八幡・富士合併の機運が醸成されていった。

新日本製鐵誕生

  70年3月31日、八幡製鐵・富士製鐵両社の念願であった合併が実現し、新日本製鐵株式会社が発足した。粗鋼年産能力4,160万トンの規模を持ち、生産拠点として、室蘭、釜石、君津、名古屋、堺、広畑、光、八幡、さらに建設途中の大分を加えて9つの製鉄所を擁することとなった。粗鋼生産でUSスチール社を抜いて自由世界第1位となる世界最大の鉄鋼会社の誕生であった。
  合併の行われた70年は、日本にとって転機となった年でもある。日本経済は拡大の一途をたどり、この年の7月まで57カ月にわたって続くいざなぎ景気の真っ只中にあった。長い好況に加え、70年3月から9月にかけて大阪で開催された日本万国博覧会が景気を一層盛り上げ、日本の国際的地位の向上が世界の注目を浴びた。しかし万博も終盤となった70年秋口、景気は翳りを見せ始め、不況感が急速に高まった。71年8月にはアメリカのニクソン大統領がドル防衛のためにドルと金の交換を停止、それに続くスミソニアン体制で円は1ドル360円から308円に大幅に切り上げられ、日本の輸出競争力は大きく減衰した。日本はいよいよ70年代の激動の時代に入り、高度成長を牽引した重厚長大産業もついに衰退期へと足を踏み入れていくことになる。鉄鋼業界にとっても状況は厳しく、73年の第1次オイルショックは大きな打撃となった。新日本製鐵では78年から87年にかけて4度にわたる合理化計画を実施するが、89年には釜石で第1高炉をはじめとする鉄源設備が休止となり、1886年(明治19年)以来燃え続けた高炉の火が消えた。103年にわたる鉄鋼一貫体制の歴史はここに幕を閉じた。

鉄の新しい時代へ

  釜石の火が消え、90年代に入ると、半導体を中心とするIT(情報技術)関連分野が産業の花形となっていった。そんななか、鉄鋼業界を激震が走った。99年、日産自動車のカルロス・ゴーン社長が鋼材調達先を入札制に切り替えたのだ。いわゆるゴーン・ショックである。鉄鋼各社の激しい価格競争が始まり、鋼材価格は国際価格をはるかに下回る水準となってしまった。この頃世界の鉄鋼業界では、国際競争力を強化するために統合による業界再編が進展しており、その後国内でもゴーン・ショックをきっかけとした過当競争を避けてマーケットの健全化を図ろうと再編の機運が高まっていた。
  2002年9月、NKKと川崎製鉄が経営統合してJFEホールディングスを設立、新日本製鐵は同年11月に住友金属工業、神戸製鋼所と包括提携して鉄鋼業界に2大グループが出来上がった。新日本製鐵誕生以来32年ぶりの鉄鋼大再編である。この再編によって、業界の技術的進展はもちろん、資源の共有化により各社設備の効率的活用が期待でき、設備改修の際のロスもカバーし合えるようになる。また、新日本製鐵は海外でも、技術のスタンダード化と国際的な信頼関係を構築するためEUのアルセロール社(粗鋼生産量42.8百万トンで世界第1位)、韓国のポスコ社(粗鋼生産量世界第5位)と提携関係を結んでいる。
  世界の粗鋼生産量は90年代までは7億トン前後を推移していたが2000年代に入って急増し、2003年は9億6,250万トン、2004年には初めて10億トンを超える見込みとなった。こうした生産急増の背景には、中国を中心とした東アジアの好況があり、鉄鋼業界はようやく活況を取り戻しつつある。しかし、業界が激変する真っ只中である2003年4月に、トップのバトンを託された三村明夫 ・新日本製鐵社長は、そこには問題もあると言う。「製品需要の増加が光の部分とすると、それがあまりにも急激なために原料の供給能力をオーバーしてしまって、原料価格が高騰するという影の部分が出てきています」。こうした影の部分に対して、新日本製鐵では原料確保のための長期契約などに加え、低品位原料を使うなどの技術開発に取り組んでいる。もっとも、原料不足に対する危機管理は今後とも必要であるとしながらも、三村社長の見通しは明るい。
「私たちが輸出している製品は非常にハイエンドのもので、特に自動車鋼板については日本のメーカーはトップクラスの技術を持っている。こうした製品に対する引き合いは今後ともきわめて強いと予想できます」。新日本製鐵は中国・上海の鉄鋼メーカー、宝山鋼鉄と合弁会社を作り、2005年5月から中国国内で自動車鋼板の生産を開始する予定だ。ただし、「海外メーカーと比べて日本の設備投資水準は高く、研究開発投資や技術力も日本は海外の水準よりはるかに上をいっている」という理由から、あくまでも日本の生産設備と立地を最大限に活用しながら世界に鉄を供給していくことが基本だという。新日本製鐵もこれまでに事業の多角化を試みたことはあった。しかし今後は、日本の産業発展の底力ともいえる鉄をコアとしたビジネスに再び集中していくという。その決意を表わすかのように、「2003年度決算で、減損会計の早期適用により財務体質の健全化を図り最終利益を確実に出せるようになりました。また、配当政策については、2004年度より、従来の安定配当から連結業績に応じた利益配分に方針変更するなど、連結経営強化の取り組みを着実に進めています」と三村社長は語る。日本の経済史のなかで、鉄は成長のシンボルであった。活況を取り戻した鉄鋼産業が、再び日本経済のシンボルとなることを期待したい。