![静岡ガス株式会社[9543]
代表取締役社長
岩崎 清悟](images/vol91/img02_04.gif)

![静岡ガス株式会社[9543]
代表取締役社長
岩崎 清悟](images/vol91/img02_01.jpg)
1946年10月静岡県生まれ。69年3月早稲田大学法学部を卒業後、静岡ガス入社。88年7月総合企画グループリーダー。96年3月取締役、2000年3月常務取締役、2001年3月専務取締役を経て、2006年3月代表取締役社長に就任。
天然ガス導入という一大事業の成功で未来を拓く
豊かで快適な生活を支えるだけにとどまらず、主な原料である天然ガスの環境優位性によって、産業界の発展に大きく寄与する都市ガス。100年にわたり地域の生活と産業を支えてきた静岡ガスも、1996年の天然ガス導入によって、そうした都市ガス事業の理想的な姿を体現した1社である。天然ガス導入プロジェクトを牽引し、同社の未来への道筋を描いたトップの素顔に迫る。
天然ガス導入というプロジェクトの成功を背景に
地域産業エネルギーの30%を担う

清水エル・エヌ・ジー袖師基地
天然ガス導入に伴い開設されたLNG受入基地。天然ガス導入は岩崎社長がキーマンとなり、8年ががりで完成させた一大プロジェクト
ガスは、水道や電力とともに人々の生活になくてはならない、いわゆる「ライフライン」と呼ばれるインフラであり、私たちには身近な存在である。同時に、クリーンで燃焼性、制御性に優れていることから、産業用エネルギーとしても活用されている。特に近年では、工場などから排出される二酸化炭素の削減効果があるとして、重油等を利用したシステムから天然ガスを利用したシステムへ燃料転換を行う施設も増えている。
つまり、ガス事業は非常に公益性の高い事業として、安定的な経営が見込まれつつ、ビジネスとしての成長性も期待できる分野にある。都市ガス事業者は、ビジネスの領域をいかに開拓していくかが、企業としての将来性を占うポイントといえる。
静岡ガスは、1988年、中堅都市ガス事業者としてはかなり早い段階で天然ガス導入を決断。導入プロジェクトの成功を背景に産業用の需要を開拓し、スケールメリットによるコストダウン構造を確立した。それと同時に、天然ガスのメリットと技術力を活かし、さらなる需要拡大を図り、現在では、供給エリア内における産業用エネルギーの消費量の約30%を担うまでに取扱量を拡大させている。
静岡ガスのさらなる成長への足固めとなる天然ガス導入プロジェクトを推進してきた中心人物が、社長の岩崎清悟氏である。同社の歴史を大きく変えたビッグプロジェクトを担ってきたその資質は、青年時代に育まれたもののようだ。
自由放任と自己責任というユニークな校風が
柔軟で強靱な心を育む
「幼少の頃の記憶に残っている原風景は“柿田川”。魚も捕ったし、泳いだりもした。川とともに育ったという思い出があります」と、岩崎社長は自らの生い立ちについて語る。
柿田川は静岡県駿東郡清水町を流れる一級河川だ。富士山に積った雪の湧き水を源流とし、水質が良く、四万十川とともに日本の名水百選に認定されている。「年間を通じて水温が15度前後といいますから、夏でもかなり冷たいほう。私の身体が丈夫なのは、そこで泳ぎを覚えたからかもしれませんね」と笑う。
青春時代を過ごした静岡県内最古といわれる韮山高等学校は、自由放任を絵に描いたような校風だった。「とにかく何をしてもいい。禁止されていることが一切ないので生徒たちは実にのびのびとしていました」という言葉通り、岩崎社長も入学早々から下駄履きで通学。時として嫌いな授業の時間には、北条早雲が築城した韮山城のあった龍城山で、昼寝、早弁、読書をして過ごすという日々だった。
「多感な時期に自由放任で育ったことが、私にとってはとても良かった。自由に好きなことをやっていい、しかし責任は自分でとれ、という教育が今の私を作ってくれたのかな」と、当時を振り返る。
ガスメーターの検針から賃金値上げ交渉まで
最前線で経営の実態を見る
早稲田大学もまた高校と同様の雰囲気。自己主張の激しい学生が全国から集い、丁々発止やり合い、最終的には互いを認め合うというところは、岩崎社長にとっては心地よい場所だった。「誰もが個性を主張する。主義主張の違う相手と徹底的に議論し合うので、自分というものをしっかりと持てる。世のなかにはいろんなヤツがいて、お互いが認め合って暮らしていかなければならないという気持ちが、この時代に強くなりました」
国際問題研究のサークルに所属していたこともあり、卒業後の進路はマスコミの外信部を希望していた。しかし、「長男だから1社くらいは地元の会社も受けてみろ」と父に言われ、たまたま静岡ガスを訪問。人事課長と国際情勢について話が弾んで帰宅すると、その晩すぐに内定の知らせがきた。今度は、「これだけ言ってくれる会社に、後ろ足で砂をかけるようなことはできない」と父に言われ、入社を決意。「地元に帰ってきてほしい父にまんまとはめられました」と岩崎社長は笑う。
当時の静岡ガスは、入社3年目くらいまでは皆外回りの現場仕事。岩崎社長もガスメーターの検針からガス料金の集金までこなした。入社5年目には静岡経済研究所に国内留学し、静岡ガスの重要な顧客である製紙産業におけるオイルショックの影響を調査・研究に取り組み、地場産業の実態をつぶさに見ることができた。
実はこのオイルショック、静岡ガス本体にも多大なる影響を及ぼしていた。原料のナフサが急激に高騰したため、料金改定をせざるを得なくなり、留学を終え企画部に戻っていた岩崎社長は、その仕事に没頭することとなった。その一方で、労働組合書記長としてスト権を確立して、ベースアップの交渉にあたるなど、若いうちから実にさまざまな仕事をこなさざるを得ない立場にあった。
その後につながる大きな財産は
かつての一大プロジェクトの“火消し”によって蓄えられた
その後も岩崎社長には、次々と重大な仕事が任された。まず76年、結婚し新居に転居した翌日、子会社である大富士ガス工業株式会社への出向を命じられる。同社は、富士市が掲げた公害防止計画に応えるための設備投資ができない中小の製紙工場に、ガスを供給するというプロジェクトを推進する会社だった。
「当時の本社の売り上げに匹敵する100億円以上もの資金が投じられたのですが、オイルショックが収まりガス代は高止まり。さらに灯油代が下がったことで、大富士ガス工業の稼働率は大幅にダウン。こうした状況で巨額の借金をいかに減らすかを考えるというのが、私に課せられた仕事でした」
銀行へは延べ払いや返済猶予の依頼に訪れ、一方で人件費などの工面もする。銀行やプラントメーカー・商社との交渉に東奔西走する日々を過ごした。
「この経験から、設備投資をする時の見通しの大切さとキャッシュフローの重要性を、身をもって学びました。金策に走るのはたいへんでしたが、おかげでガス関連業界や金融界にネットワークができた。これは、その後の仕事において大きな財産になりました」と当時を振り返る。



