

1948年6月、石川県生まれ。父親の転勤で全国各地を転々とする。72年東京大学薬学部製薬化学科卒業後、三共(株)入社。7年間新薬の開発に携わった後、79年スイス・バーゼル駐在所へ赴任。この経験から、長く海外部門で活躍。99年海外医薬営業本部長、2001年取締役、2002年常務取締役を経て、2003年6月に代表取締役社長となる。2005年9月、三共と第一製薬の経営統合に伴って、第一三共(株)の代表取締役社長に就任。CEOを兼任し、経営に手腕を振るう。
目指すは「グローバル創薬型企業」の実現
2005年9月、三共と第一製薬の統合によって誕生した第一三共株式会社。2007年4月には、2社の完全統合を実現させた。激動のなかにある製薬業界にあって、この決断は業績の向上に大きく作用し、掲げたビジョンの達成にも大いに期待を持たせた。新会社のトップとして、そうした一連の動きの舵をとってきたのが、庄田隆社長である。
経営統合によって 国内2位の連結売上高を実現
世界中から熱い視線を集める
日本の製薬業界の市場規模は非常に大きい。世界の約10%を占めているといわれ、これは世界第2位の市場規模に相当する。米国には及ばないものの、欧州各国をはるかにしのぐ、大きな市場を有しているのである。
この巨大な市場を欧米企業が見逃すわけもなく、日本進出は活発化している。それに伴い、国内の製薬業界でも再編が進んでいるが、なかでも注目を集めたのが、三共と第一製薬の経営統合である。
統合後の連結売上高は9000億円規模となり、業界首位に迫った。さらに2007年4月には、当初の持株会社方式による経営統合から、完全統合を実現。新薬開発の効率化とスピードにも拍車がかかり、世界市場への挑戦というテーマを本格化させる足がかりもできた。
まさに大転換期、飛躍への第一歩を踏み出したこの重要な時期に、経営の舵とりを担っているのが、庄田隆代表取締役社長兼CEOである。
長く欧州での駐在を経験し、海外展開の先陣を切ってきた。その経験は、世界を相手にビジネスを手がける昨今の製薬業界のトップにはうってつけ。庄田社長の一挙手一投足はもちろん、その経歴にも注目が集まっている。
転校を繰り返した子供時代
新しい環境に飛び込み、周囲と協調する柔軟性を養う
「幼稚園を3カ所、小学校、中学校も3校、高校を2校。父の仕事の関係で、日本全国を転々として育ちました。その土地その土地でいろいろな想い出がありますね。兵庫県の宝塚中学校は、やはり歌劇団の街ということで、華やかな雰囲気のなかで学校へ通ったことは、今でも覚えています」と、庄田社長は、自らの生い立ちについて話す。
今でこそ、子供の通学などの理由から父親が単身赴任することは珍しくないが、かつては父親とともに一家揃って引っ越していく家庭がほとんどだった。小さい頃から転校を余儀なくされれば、環境への柔軟な対応力は否応なく養われる。庄田社長がかつて、薬学部出身でありながらたった1人で海外へ出て、営業的な要素もこなし、無理難題にも臆することなく臨んでこられたのも、幼少から青年にかけて経験した“転校生生活”があったからこそと想像する。
人生の岐路に直面した時に、どの道に進むのかを判断する際にも、実に柔軟だった。
エンジニアだった父のアドバイスから大学では理系を選ぶも、教養課程から専門課程へ進む際には、友人が選ぶ道に興味を持った。その友人というのが、現在、日本薬学会次期会頭で2006年紫綬褒章を受章した長野哲雄氏であるというから、相当レベルが高い。人の進路に興味を持ち、それについていくほうにも、資質があったことは間違いない。
こうした自身の歩みを振り返って庄田社長は、
「人には2通りのタイプがあると思うんです。ひとつは、目標を絞って、それに向かうタイプ。もうひとつは、初めから目標を絞ってしまわず、岐路に立った時に進路を決めていくタイプ。どちらかというと私は後者ですね。それだけに思い切りのよさはあるし、これまでも結構大胆な判断をしてきたのではないかと思います」
と言う。
激動期のトップにとって、判断のスピードと決断力は重要な要素。今後の舵とりに、大きな期待が寄せられるゆえんである。
31歳という若さで スイス・バーゼルに1人駐在
グローバル化への志が芽生える
大学卒業時には、同期の友人のほとんどが大学院へ進むなか、庄田社長は就職の道を選ぶ。それは「実社会で自分の力を試したい。世の中の役に立ち、自分も会社も大きく成長できる場所で挑戦したい」という気持ちからだった。そして、製薬会社のなかでも初代社長高峰譲吉が同郷の金沢出身というところに縁を感じ、三共株式会社(当時)への就職を決めた。
「入社後も『実験が不得手で大学院へ進まなかったのだから』と、研究部門でない部門への配属を希望。三共という会社は、新人のそんなわがままにも、ちゃんと耳を傾けてくれたんです」と笑う。つまり、入社してから7年間は、本社の開発部門で、新薬の開発に携わることとなったのである。
製薬会社にとって最も重要といっても過言ではない「新薬に対する嗅覚」に優れているといわれる庄田社長だが、それを育むには、開発部門での7年間が、非常に大きかっただろう。
さらに、次代を担う製薬会社の人材として一皮むけるのに絶好の契機となったのが、31歳という若さでスイス・バーゼルにたった1人で駐在したことだった。
バーゼルには、サンド、チバガイギー、ロシュという大手製薬メーカー3社の本社があった。それだけに三共の駐在所開設も早く、駐在員も庄田社長で5人目だった。こうした話を聞くと、さぞかし華麗な日々を送ったことと想像されるかもしれないが、庄田社長自身は、当時をこんなふうに振り返る。
「事務所としては非常に小さく、日本からの駐在員もたった1人。提携会社との連絡役や来客者のアテンドなど、あらゆる業務を1人でこなさなければならない。とにかく必死で、駐在していた7年間は一度も日本に帰らなかったほどでした」







