
言いたいことを言い、やりたいことをやって 実力を身につけていった
旭化成を就職先に選んだのも、それほど深い考えがあったわけではないという。
当時は東京オリンピックの開催を控え、日本経済は高度成長の真っ只中。特に工学部には、40人のクラスに1000人もの求人が来たほどだった。 そうしたなかで勤め先を旭化成に決めたきっかけは、ある週刊誌の記事だったという。
「旭化成では、若手社員を集めてこれからの社会に必要なものは何かを討論させ、そこで出た意見に基づいて新しい事業を始めようとしている、というようなことが書いてありました。それを見て、ここならやりたいことをやらせてもらえるのではないかと思いました」
会社というのは完全なピラミッドで、上の者が考えて決めたことを、下の者が黙々とこなしていくものと思っていた蛭田社長にとって、この記事はとても新鮮に映った。実際入社してみると、記事に書いてあったとおりの社風だった。蛭田社長自身、「どの配属先へ行っても言いたいことを言い、やりたいことをやってきましたが、クビになるようなことはありませんでしたからね」と笑う。

例えば入社してすぐのこと。ナイロン工場の研究科に配属された蛭田社長は、直接製造に結びつかない研究をしている職場を見て、改善のためにと、レポートを課長宛に提出。歯に衣着せぬ内容は、工場長をいたく立腹させたが、それが将来に響くことはなかった。
それどころか、3年後には希望した製造部門に異動して、思う存分腕を振るうことができた。
以来、歴代社長に比べ、最も多くの事業部門を経験したといわれるように、繊維から樹脂、エレクトロニクスの各事業部門を渡り歩いた。その都度、そこが抱える課題を見抜き、解決のための努力を惜しまず続けてきた。こうしたエピソードは、「課題に真正面から取り組み、妥協しない。何より将来に対する熱い志がある」と評されるとおりである。







