
進学させてくれた両親の思いに応えようと
必死に勉強した高校時代
「遊び回ったというような想い出というのは、ほとんどありません」
幼少時代について聞くと、開口一番、そんな言葉が返ってきた。
「出身は福島県で、実家は阿武隈高地の合間で農業を営んでいました。8人兄弟という大家族ではあったものの、父が病弱だったために、結局は兄弟全員で母を支えながら、何とか生活していたという状態でした。ですから私も、夏なら飼い葉取り、冬は薪割りと、常に家の手伝いをしているような少年時代でした」
今でこそ少なくなってしまったが、戦前戦後の日本の農家には、当たり前のようにあった環境である。食べるのがやっとという状況下で、誰もが辛抱強く、地道な努力を毎日繰り返しながら一生懸命に暮らしていた。それだけに蛭田社長もほかの兄弟同様、中学を出たらすぐに働きだして、家計を助けるつもりでいた。卒業を控えて、就職先も決まっていたという。
「それがある人の勧めで、急に高校へ行くことになったんです。とはいえ受験勉強なんてまったくしていなかったので、とにかく入れるところへ入ろうと、それだけを考えて進学しました」
生活が厳しいなかで進学させてくれた両親の思いに応えようと、高校生の蛭田少年は必死で勉強した。結果、その学力は周囲の誰もが認めるところとなり、大学への進学に家族の期待も高まってきた。
「大学も工学部ならば、比較的奨学金がもらいやすい。はなはだ打算的な考えでしたけれど、とにかく勉強を続けるためにはどうしたらいいかということだけを考えていました。横浜国大を選んだのも、すぐ上の兄が京浜地区の会社に勤めていたから。ですから、進路については、ほとんど何も考えていなかったといってもいいくらいです」
とはいえ、大学へ進んでからは、蛭田社長も青春を謳歌している。就職後も続けた山歩きは、学生時代に始めたものだ。







