合理的な新製品開発体制の確立で
世界の製造業を強力にバックアップする
工業製品がどのように作られていくか、ご存じだろうか。まずは製品の企画が立てられ、それに沿ってデザイン画が描かれる。しかし、平面の画だけでは確認できないことが多いため、実物の外観同様の「デザインモデル」を粘土や樹脂などで作り、その外観をチェックする。
その確認ができたところでようやく基本設計が行われ、より精巧な「ワーキングモデル」が作製される。その後、内部メカの組み込みを検討したり、技術的な確認をする。ここまできて初めて、金型の製造に入り、実際の成形へとつながっていく。
われわれの身の回りにある、携帯電話、家電製品、パソコン、自動車……ほとんどすべての工業製品が、こうしたステップを経て商品となっている。しかし、新製品の開発スピードが、そのまま企業の競争力の差となる昨今は、このステップをいかに簡略化するかということに、多大な労力が注がれている。
この難題を解決することで、多くの製造業をバックアップし、急成長を続けているのがアークである。
量産技術においては世界でも有数の高い技術を誇るわが国のメーカーだが、こと新製品開発に関しては合理的な体制の確立には至っていない。企画から量産までの各開発プロセスが、それぞれ独立した形態をなしていて、情報伝達に手間取っているのが現状である。
「当社は、そうした実態の打破に向けて、新製品開発におけるすべてのプロセスを総合的に管理し、一元化されたデータに基づいた、合理的な新製品開発体制=フルライン・ネットワークを確立しています」と同社代表の荒木壽一会長は語る。
試作品づくりを外注として引き受けるというビジネスモデルの確立から、現在のような新製品開発をトータルに支援するというビジネスモデルの開拓まで。荒木会長は、常に既成概念を打ち壊すような、新境地に挑み続けてきた。その姿勢は今や独特なM&Aを実施して傘下となったグループ企業に対する経営手法や、従業員の働き方にまで及び、企業経営者はもちろん、多くのジャーナリストからも注目されるようになっている。
木製なのに、まるで実物そのもの。
18歳で「試作品づくり」の魅力にはまる
荒木会長がデザインモデル、つまり試作品ビジネスを手がけ始めたのは、大学進学に向けて受験勉強に励んでいた時代までさかのぼる。早川電機工業(現・シャープ)に勤務していた叔父から、「デザイン課ができて、ホームラジオの立体モデルを作ってくれるところを探している」と相談されたのがきっかけだった。
その話に興味を覚えた荒木会長は、独学で試作品を製造。それが思いのほか高い評価を得て、しかも、なかなかの売り上げとなった。大学進学をあきらめてでも、これが仕事になるのならおもしろいと思ったのである。
「父親も大賛成。『材料代がかからず、技術だけでそれだけ売り上げるとはすごい!』と、全力でバックアップしてくれました」
試作品ビジネスを父の会社で手がけることになり、いわば子が父を使う形にはなったが、それにこだわらない父の度量が、その後の事業の成長に功を奏した。もともと父の経営する荒木製作所は、「木型屋」という、鋳型(溶鉄を流し込んで鋳物を作る砂の型)を作る際に用いる木製模型の製造会社だった。木を扱うのが本業であったが、試作品ビジネスに進出するにあたっては、そのことにはあまりこだわらなかった。
よりリアルな姿を作り出すために、メッキやシルクスクリーン、塗装、アルミプレスといった他分野の技術を導入。木製だとは思えないような試作品を作ることで、取引先の信頼を高めていったのである。
そして、事業開始6年後には、試作品製造を専業とする大阪デザインモデルセンターを設立。荒木会長自らが専務取締役として、新工場を切り盛りするまでになったのである。
既成概念を振り払い、常識を疑う。
早弁事件と暖房費1円玉払い事件
「他人がいいということを、なるほど確かにいいと、すぐに認めてしまう。影響されやすいんですね。だから、“イズム”を強烈に示すこともできない」
アークグループとして、統一した社是や企業理念がないことに対して、荒木会長は自身の性格と結びつけてそう語る。しかしその一方で、決して既成概念に縛られることなく、常識的に正しいといわれることでも「本当にそうか?」と絶えず疑いの目で見てしまう。そんな習性も心の内には潜んでいるという。
それは持って生まれた性格なのかもしれないが、そう思われるようなエピソードは、高校時代にいくつもあった。
例えば、“早弁事件”。1時限目の授業後の休み時間に、弁当を食べていたということで、教師からきつく注意された。しかし荒木会長は、休み時間なのになぜ弁当を食べてはいけないのか、腹が減ったままで授業を受けるほうが、身につかないではないかと、正論を教師に突きつけて、騒ぎが大きくなったのである。「結局、私の言い分は認められませんでしたけど、担任教師が味方してくれたので、わかってくれる人もいると、納得しました」。
また、“暖房費1円玉払い事件”というのもある。その学校では、生徒から暖房費を徴収していながら、暖房が入っているのは職員室だけ。教室にはいっさい暖房が入っていなかった。「なぜ金を払っているのに、生徒が学ぶ教室が暖かくないのか」。それまで誰も疑わなかったこの件に、荒木会長は異論を唱えた。
結局これも認められず、「悔しいから暖房費を全部1円玉で払いました」というから、なかなか反骨精神にあふれた少年だったようだ。
デザイン先進国の技術を学びたいと
約20年前の米国に単身飛び込む
こうした荒木会長の性格は、ビジネス展開にも如実に表れている。例えば、高度成長のまっただ中にありながら、「規模の拡大より質の向上」を唱え、海外進出に挑戦。欧米の仕事を直接受注することで、デザイン先進国に匹敵する技術を、自社に蓄えようとした。
最初の海外進出は、1984年。1人の部下を従えて米国へと乗り込み、顧客開拓に歩き回った。初受注は、工業デザインの第一人者であるヘンリー・ドレイファス(Henry Dreyfuss)の事務所からだった。
「キャタピラー社製トラクターの10分の1モデルづくりでした。交渉して何とか受注したつもりだったのに、夜にホテルへ電話がかかってきて、やっぱりキャンセルしたいという。それでも、見てもらうだけでもいいからと翌日、徹夜で仕上げた図面と手順書を持参したら、なんと即OKが出た。われわれの技術の高さが、相手の気持ちを変えたわけです」
ヘンリー・ドレイファスの仕事を受注したということが追い風となり、その後はIBM、AT&T、ウエスティングハウス、GE(ゼネラル・エレクトリック)といった米国を代表する企業からも、次々と試作品づくりを任されるようになった。
現在のアークが掲げる「新製品開発支援」というビジネスモデルも、米国で3次元CAD(コンピュータによる設計)に出合ったことで生まれた。
その3次元CADは、スタッフ全員がコンピュータのデータに同時にアクセスして、各人が個々の異なる作業を同時に行うことが可能なものだった。さらに金型設計や量産に関する問題点までもコンピュータ上で検証することができる。このように、大幅な開発期間の短縮とコストダウンが図れることに、荒木会長は大きな衝撃を受けた。
そして、バブル経済に浮かれる他社を尻目に、大胆な投資でこの3次元CADを導入。さらには、NC(数値制御)やMC(マシニング・センター)などのCAM(コンピュータによる製造)を組み合わせ、新製品開発を一貫して支援するという、画期的なビジネスモデルを確立したのである。
96年に株式上場を果たしてからは、新製品開発の各ステップに関わる企業のM&Aに、積極的に取り組んだ。そして金型設計、金型製造、成形2次加工を行う企業とともに、一連のステップをすべてグループ内でこなせる仕組みを作り上げた。
しかも、そのM&Aをしたグループ企業を束ねる手法がまた、荒木会長らしかった。「本社から経営陣を送らない」「社名も変えない」「経営についても直接関与しない」という方針を貫いたのである。
業績不振を理由にオーナーが身売りするケースが多いが、荒木会長は「低迷の理由が明確なら業績は改善できる」と話す。そして、顧客情報と技術情報を共有し、互いの資産を活かし合うことで、共に成長していこうというわけだ。
「仕事の効率化や改善などは、強制されても楽しくないし、身につかないでしょう。自分で考えて行動しなければ、人間は進歩しませんよ」と、荒木会長は語る。この言葉の裏には、そもそも自分自身が人に強制されるのを嫌い、わが道を歩いてきたからこそここまでこられた、という思いも隠されているのだろう。
また、アークは93年にとてもユニークな「社内独立制度」を導入している。従業員は、入社後丸3年経つといったん退社し、個人事業主となる。いわば個人会社の社長として、アークから仕事を受注して仕事に取り組む。従業員の時と同様に会社には通うが、立場はまったく異なる。若くても実力があれば、仕事はどんどん受注できるし、収入もどんどん上がっていくというわけだ。
「私だったら、仕事と関係ない理由で待遇に格差をつけられたくない。そんな思いから、若手ながらベテラン並みの技能を身につけた人が、低賃金に甘んじないようにと、導入した制度なんです」
既成概念にとらわれない。しかし、いいといわれることは否定せず、どんどん導入する。柔軟で個性的な荒木会長の経営手法に、注目する経営者が増えているのも、むべなるかなといったところ。そしてまた、今後どんな成長戦略を見せてくれるのか。お楽しみはこれからだと思わせてくれるところもまた、荒木会長ならではといえるのかもしれない。