CONTENTS on line vol.93 2011 ★ SPRING  

先駆者たちの大地
 “松風”―その風雅な社名からは、事業内容は推し量れない。しかし、人工歯をはじめ、“SHOFU”は歯科医療材料のグローバルブランドである。かつて、「日本人による日本人のための」人工歯の開発を目指した企業は、やがてその技術力により「世界の人のための」快適な噛み心地と自然な歯の美しさの再現を実現させていく。
株式会社松風[7979] 企業の沿革 株式会社松風

「絶対にできるという強い意志」

「大学で学んだ技術だけでは通用しない」。
1981年の初夏を迎える頃、入社後3週間の研修を終えて松風の研究開発部門に配属された現社長の根來紀行(ねごろ のりゆき)は、総勢5人の研究チームのなかで虫歯治療に使用するコンポジットレジンという充填材を開発していた。これまでの主流材料はアマルガムという合金だったが、安全性が高く、光を当てることで硬化する扱いやすい光重合型コンポジットレジンを日本で初めて開発することが使命だ。
先例のない研究は、時として迷路に迷い込む。先輩研究者の指示に従って開発の一端を担っていた根來は、完成のめどが立たない研究に押し潰されそうになることもあった。
3年後、研究者たちの努力が実った。日本初となる光重合型コンポジットレジンは「ライトフィル」という商品名で売り出され、その機能と操作性により業界に衝撃を与えた。

この時の経験で根來は多くのことを学んだ。大学の研究とは異なり、企業の研究には何よりも安全性が求められ、しかも性能の維持が重要だということ、「絶対にできるという強い意志」を持てば研究は必ず形になること、そして松風という会社には、必要とされる製品の研究開発に努力を惜しまない社風があるということだ。
今日に至るまで、松風には日本初・国産初となる製品が数多く存在する。それらは、常に時代のニーズを咀嚼し、独自の製品開発につなげてきた企業の軌跡を描いている。

陶磁器より始まる

1926(大正15)年当時の松風陶歯製造
1926(大正15)年当時の松風陶歯製造

松風という社名からは風雅な印象を受ける。創業家である松風家の初代嘉定(かじょう)は、天保年間に山科小栗栖の寺の住職から京都の清水で製陶家に転じた人物だ。屋号を松風亭とした。2代目嘉定は初代の志を継いで陶磁器の製作を始め、少数の工芸品よりも大量の工業製品の製造に興味を持ち、輸出用の磁器製造を行った。
そして3代目嘉定は松風亭を松風と改め、京都陶器(株)、松風陶器合資会社の社長として陶磁器や高圧碍子(こうあつがいし)の製造を手がけた。この3代目が現在の松風を創立する。

1915(大正4)年、3代目嘉定は陶磁器などの拡販のため北米を視察した折、岡田満医学博士(後の慶應大学医学部歯学科教授)から、国産陶歯開発の必要性を説かれた。当時の日本の歯科医療現場で使われていた人工歯は、アメリカ、イギリス、ドイツ製が主流だった。国産品も名古屋や美濃あたりで細々と製造されていたが、多くは臨床家や大学研究者などによる評価を受けておらず、型態や強度に問題があったため、現場では高価な輸入陶歯を使わざるを得ない状況だった。
この時、岡田は、野口英世博士と同宿しながら歯科技工を学び、歯科技工所ストゥ・アンド・エディ・カンパニーの副工場長だった荒木紀男を嘉定に紹介する。ふたりは夕飯を共にすると意気投合し、そのまま翌朝4時まで陶歯製造について語り合った。嘉定の気持ちは陶歯製造に傾き、荒木に陶歯研究を委託して帰国した。

「松風陶歯製造」の誕生

創業の頃の陶歯成形作業。多くは女性たちの手で作られていた
創業の頃の陶歯成形作業。多くは女性たちの手で作られていた

1918(大正7)年、荒木が研究成果を携えて帰国。翌年、嘉定は松風陶歯研究所を設立し、荒木の技術を用いた陶歯製造の研究に着手した。日本における本格的な人工歯研究の始まりだった。研究所には日本の歯牙(しが)型態の最高権威者であった小野寅之助も参加し、「日本人による日本人のための高級陶歯」である「松風アナトーム型態」の開発に成功する。
この試作品は1921(大正10)年の大日本歯科医学総会で発表され好評を得たことから、嘉定は製品化に自信を持ち、1922(大正11)年5月15日、京都の地(本社南工場付近)に800坪の工場を建設し、資本金25万円、従業員40人の松風陶歯製造(株)を設立した。

当時は歯科材料の規格すらない時代だった。1932年、内務大臣を会長とする薬事振興調査会の委員に任命された嘉定は、日本歯科材料協会を社団法人に改組し、その事業のひとつとして歯科材料規格調査委員会を設置して、歯科材料の規格の制定や歯科理工学の発展、歯科材料の品質向上に努めた。以来、松風は常に業界をリードする役割を果たすことになる。

戦時下での開発

1939年に開設された東京・銀座の松風陳列所。新製品の「松風パラジウムS」をPRしている
1939年に開設された東京・銀座の松風陳列所。新製品の「松風パラジウムS」をPRしている

第二次世界大戦が近づき、戦時体制が強化されても、松風は開発の手を休めなかった。
物資が統制され、人体に使用しても副作用の少ない金の供給が制限されるようになると、すぐに代替品の開発に着手した。日本初のパラジウム合金「松風パラジウムS」を発売したのは、1937年のことである。

この頃の松風は業界でもユニークな存在として注目されていた。1939年、東京・銀座に歯科医療関係者向けに「松風陳列所」を開設し、新製品を展示したのだ。ディスプレイには時節を反映した「金歯も國家のお役に」の文字。また『銀座松風』という機関誌の発行も手がけた。
戦争に突入しても製品開発は続き、1940年には国産初の樹脂床用材料「松風バイオレジン」を発売している。

こうした歯科材料の製造を、戦時下に支えた人々のエピソードがある。戦況の悪化とともに工場の担い手である男たちが戦地へ駆り出されるようになると、松風は京都府知事の依頼を受けて、廃業命令を受けた祇園の師匠や女将、芸妓らを従業員として採用し、歌舞練場に工場を開設した。女性たちの働きは実に見事で、松風の製品を担う頼もしい戦力になったという。

技術の開花

松風が開発・発売した商品のパンフレット。1952年には国産初のダイヤモンド研削材を開発、発売した(右端)
松風が開発・発売した商品のパンフレット。1952年には国産初のダイヤモンド研削材を開発、発売した(右端)

終戦を迎えると、松風は生産方針の見直し、販売組織の立て直しや関連会社の整理を行い、新資本金50万円を集め、新たな時代へと踏み出した。物資が困窮する時代ではあったが、社員総出で資材を確保して生産を継続する一方、積極的な新製品開発を行った。創業以来受け継がれてきた「研究開発の松風」の火は消えていなかったのだ。

当時、力を入れていたのは、真空技術を応用した陶歯の焼成方法に関する研究である。厚生省(当時)からの助成金を受けたことも追い風となり、1952年、硬度や耐摩耗性という陶歯の長所を備えながら審美性にも優れた日本初の「真空焼成陶歯」が完成した。
注目すべき点はその性能もさることながら、審美性をも追求していることだ。自然の歯と同様の美しさまで備えていなければ患者は満足しない――この考えは後に重要なプロジェクトとして花開くことになる。

新製品の開発は続き、解剖学的な根拠に基づく人工歯型態を進化させ、1957年に天然歯を忠実に模したリアル型態の前歯、1962年にはリアル型態のレジン歯を発売した。これにより松風の製品は国際的に通用する性能と品質を備えることになった。
生産施設や研究施設の拡充にも力を入れた。1952〜56年にかけて当初の工場の隣接地を買収し、レジン歯・セメント・研削材工場と研究所棟を開設。その後事務所棟を建設し、研究・生産・事務部門の強化、国内の営業拠点の拡充も図った。そして、有利な資金調達を図るために1963年に株式を公開し、日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄となった。

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