名刺の威力

創業者 横河民輔
「10分だけでしたら」
株式会社横河ブリッジホールディングスの吉田明社長の胸に、いまだにこの言葉が甦ることがある。今を去ること40年前、ある設計事務所が話題の大型工事を受注したというニュースに、彼の上司は受注の詳細を調べてくるように営業マン1年生の吉田に指示を与えた。本来であれば社内外を通して事務所とのコネクションを探り、要職にある人を通して面談の約束を取り付けるといった社会人のルールに従い行動するところだが、慶應義塾大学経済学部で応援団出身の1年生サラリーマンは、あろうことかその約束もとらずにいきなり事務所を訪れ、「構造設計部長にお会いしたい」とストレートに切り出した。即座に門前払いを受けるのが当然の成り行きだったが、吉田の名刺を見た受付係が発したのが冒頭の言葉だ。あとになって考えてみれば、入社1年目で初対面の新人サラリーマンを部長に取り次いでくれたものこそ、横河の名刺であり、業界におけるブランド力のたまものだった。
良いものを追求した創業者

民輔の設計思想が表れている卒業制作「Tokyo City-Building」
横河ブリッジホールディングスとそのグループ(以下、横河グループ)の創業者横河民輔は1864(元治元)年、現在の明石市に医師横河秋濤の4男として生まれた。地方医療に尽力する横河家の家計は楽ではなく、民輔は神戸の中学校を卒業すると郷里の小学校の代用教員として働き始めた。だが進学に対する思いは強く、兄の援助を得て1883(明治16)年、明治政府が西欧の近代技術を有するリーダーを育成するために設けた工部大学校(現・東京大学工学部)に入学する。
工部大学校は入学2年後に帝国大学工科大学として再編され、専門科を決める時期に当たっていた民輔は、造家学科と呼ばれた建築工学科を選んだ。民輔の建築思想に大きな影響を与えたのは、明治政府にイギリスから招聘されて造家学科の教鞭をとっていたジョサイア・コンドルである。コンドルは東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾ら日本建築界の指導者となる人材を育てた人物だ。
民輔の建築思想とはどのようなものなのか。卒業制作「Tokyo City-Building」にはっきりと表れている。この建物は西欧風の外観のなかに日本の伝統的な町家の形式を取り入れた「マンション」で、耐震、耐火、採光、換気という現代では欠かせない要素が盛り込まれ、西欧建築の高度な技術に日本の風土、日本人の特性を融合させた作品だった。
工科大学を卒業した民輔は1890(明治23)年、東京の日本橋に日本人で初めてといわれる建築事務所を開設。しかし5年後には、事務所を閉じて三井財閥の事務を統括する「三井元方」の嘱託となり、近代化を目指す三井各社を集約する目的で計画された三井総本店を設計した。この建物では耐震耐火性を考慮して鉄骨構造を不燃煉瓦で包む「鉄骨煉瓦造り」方式を採用、現代のカーテンウォール工法の先駆けとなった。

竣工当時の「三井総本店」
三井総本店が完成した翌年の1903(明治36)年、民輔は三井を離れ「横河工務所」を開設した。その直後、民輔の名前を不動のものとする大きな仕事が舞い込んだ。渋沢栄一ら財界人が「欧米諸国に引けをとらない大劇場を」と依頼した「帝国劇場」と、わが国最初の百貨店「三越呉服店本店」である。民輔はこうした建築の仕事に精力を注ぐ一方で、多岐にわたる事業を手がけた。その先駆けとなった「横河橋梁製作所」(後に「横河ブリッジ」に商号変更)は当初横河工務所の一部門として誕生。翌1907(明治40)年に独立するとすぐに鉄道院の橋桁製作工場に指定されるなど、順調に業績を伸ばしていった。
起業はするが経営はしない―それが民輔の真骨頂といえる。資本と経営を分け、自らはオーナーの役割に徹し、経営は信頼する近親者や部下に任せ口出しはしなかった。この姿勢が多くの優れた「横河人」を育て、グループ企業を発展に導いたのだろう。
かつて電気計器事業を始めた時、事業を委ねた相手に「きみたちはこの仕事で儲けようなどと考える必要はない。それよりもまず、技術を覚え、技術を磨くことだ。横河電機の製品はさすがに良い、と言われるようにしてもらいたい」と話し、工務所のスタッフには常に「誠実であれ。良いものを作れ」と語っていたという。この精神が横河橋梁製作所、後の株式会社横河ブリッジにも強く受け継がれている。



