CONTENTS on line vol.88 2010 ★ NEW YEAR  

先駆者たちの大地
 1兆円企業に熱湯を注げ
大和ハウス工業株式会社[1925]
創業者が、生み、育ててきた企業を次代に託す時、
創成期の煮えたぎるようなエネルギーはどのように受け継がれていくか。
大和ハウス工業の経営者たちの物語に、その答えが見えてくる。 写真館 企業の沿革 大和ハウス工業の歴史

創業者との思い出から大和ハウスの未来までを語る樋口の言葉にはまさに熱湯のような熱い想いが
創業者との思い出から大和ハウスの未来までを語る樋口の言葉にはまさに熱湯のような熱い想いが

「こらぁっ!」樋口武男の怒声が部屋中に轟いた。
「伝える気がないなら話などするなぁ! こんなことでは意思の伝達などできるわけないわ!」樋口が社長に就任した、その第1日目のことである。

2001年4月1日、大和ハウス工業(株)は大和団地(株)と合併し、総資産1兆1340億円、社員数1万2800人の新生大和ハウス工業が誕生した。しかしこの日、大和団地から大和ハウス工業に社長として8年ぶりに戻ってきた樋口の目に映ったのは、以前の、あの野武士集団のような大和ハウス工業ではなかった。

その朝、樋口は大会議室で管理職600人を前に訓辞を行い、その後、部署ごとに幹部による朝礼が行われることになっていた。1兆円企業の船出の決意ともいえる訓辞がどのように伝えられているか。その様子を見ようと、樋口は各フロアを回って歩いた。ところが、である。ある事業本部の朝礼で最後列に立ってみると、話している役員の声がちっとも聞こえない。まわりの社員に尋ねてみても、みな聞こえないという。決意表明の朝という気迫は、話す側にも聞く側にも一片も感じられなかった。

さらに調べてみると、重複した部署や役割の不明瞭な部署がごろごろと出てきた。目標が漠然としている、失敗を恐れて何もしない、先延ばしにする。澱んだ空気も蔓延していた。

大和ハウス工業は、合併の4年前の1996年度に単体で1兆1600億円の売上高を達成し、ピークを迎えていた。樋口が見たものは、その副作用のように大企業病に陥った会社の姿だった。しかし合併前年度の大和ハウス工業と大和団地の売上高を加算してみても、ピーク時には及ばない。実情は甘くなかった。社員がぬるま湯に浸かっているなら熱湯を注ぐしかない。熱湯経営でいく、と、社長就任の当日に樋口は心を決めた.

稲はなぜ折れなかったか

野武士集団、大和ハウス工業。それは、パナソニックの松下幸之助、ホンダの本田宗一郎などと並んで稀代の経営者といわれる石橋信夫が創業し、育て上げたものである。創業の種は、50年9月3日に近畿地方を襲ったジェーン台風が運んできた。

ジェーン台風は各地に豪雨をもたらした大型台風で、死者・行方不明者は500人を超え、家屋の崩壊は2万戸に及んだ。シベリア抑留から帰り、生家の材木販売業を手伝っていた石橋は、台風襲来の直後、故郷奈良の山々を回って山林の被害を調べていた。河川は様相を変え、山林は崩れて赤い山肌がむき出しになっている。木造の家々はあちこちで崩れ落ちていた。水田に出てみた時、石橋はあることに気がついた。稲は折れずに立っている。そういえば竹林もまったく被害を受けていなかった。どういうことだろうか。稲を折り取ってみる。断面は中空である。竹もそうだ。中空だから軽い。そしてしなやか。これだ、と思い至る。この頃、戦後復興のために木材需要は急増し、山林資源は枯渇し始めていた。木材を使わず台風にも倒れない建築。石橋が、鉄パイプで家を作るという構想のヒントを得たのはこの時である。

それから5年後の55年4月5日に、大和ハウス工業は発足した。創業商品はもちろん「パイプハウス」である。パイプハウスは鉄パイプを工場であらかじめ接合しやすく加工したうえで、現場に持ち込んで組み立てる。大量生産を可能にするために規格化する、いわば「建築の工業化」である。石橋が社名に「工業」の文字を入れたのも、そこにこだわりがあったためだ。石橋はこのパイプハウスを、国鉄に狙いを絞って売り込みにかかった。
国鉄は全国を網羅している。資材倉庫や宿舎として、パイプハウスの需要は無限にあるにちがいない。当時、約4500の駅があり、そのうち2561の駅が販売の対象となった。この狙いは当たり、石橋は国鉄に続いて、電電公社、営林局、郵便局など、全国にネットワークを持つ官公庁にパイプハウスを売り込んでいった。北は北海道の稚内から南は鹿児島県の端まで、夜汽車をホテル代わりに22日間連続でセールスに歩き続けたこともあった。こうして大和ハウス工業の経営は軌道に乗り、創業の翌年、56年度の売上高は1億6664万4000円と、創業年度の2691万3000円からじつに約6倍に伸張した。

解体、移動、組み立てが簡単という「建築の工業化」によるパイプハウスの特徴は、やがて、日本のプレハブ住宅の原点となる「ミゼットハウス」に受け継がれる。きっかけは、59年の夏のある日曜日、石橋が鮎釣りに出かけた時のことである。夕闇が迫っても、遊んでいた子供たちは帰ろうとしない。「はよう帰らんと叱られるぞ」と声をかけると意外な答えが返ってきた。「帰ってもしゃあない。居るとこないねん」
そのひと言で閃いた。

戦後、51年までに生まれたベビーブームの世代は1400万人に及ぶ。59年当時、子供たちにはまだ自分のスペースはなく、家族や兄弟とすし詰めになって暮らしていた。この子たちに庭に建てられる勉強部屋を作ってやろう。石橋はその足で、本社近くにある6畳一間の研究室に向かい、研究開発を命じた。条件は、建築許可のいらない3坪以下の建物で、坪4万円以下、3時間で建つこと。秋になって完成したのは、軽量鉄骨を柱にハードボードを組み付けるもので、6畳型11万8000円、4畳半型10万8000円。超小型だから名前はミゼットハウス。59年10月から販売を開始した。
売り方にも工夫を凝らし、全国27カ所のデパートで展示即売会を行ったのだが、これが大反響を呼び、発売と同時に会社の電話は鳴りっぱなしになった。やがてユーザーからさまざまな声が寄せられ、その注文に応えるように、新婚夫婦用に台所とトイレを付けた「スーパー・ミゼットハウス」が開発された。これが土台となって大和ハウス工業は一般住宅へ進出し、やがて大きく飛躍を遂げていく。

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