1973年の冬、富士通(株)の中村陽生(本文中敬称略。以下同)は業界誌を片っ端から調べ、広告を頼りに懸命にソフトウエア開発会社を探していた。当時、同社の通信部門は他のメーカー4社とともに電電公社武蔵野電気通信研究所から受注した、従来の機械式交換機と比べて大容量の通信回線を高速でスイッチング(回線制御)できる新型の電子交換機の開発に着手していた。
その頃は、ソフトウエア開発といえばアプリケーションソフトの開発が主流だったが、コンピュータの性能もまだ低く、アプリケーションソフトもそれに見合った規模だったため、数人のSEが短時間で開発できる業務がほとんどだった。しかし通信分野ではまったく事情が違っていた。通信を制御するシステム開発は、合計200〜300人のSEチームが数年かかって開発を行うような大規模なプロジェクトとなることが多かった。また、当時の日本は、高度成長期の最終ステージにあり、開発規模が増大するにつれ、当然のように深刻なエンジニア不足となった。そこで中村たちのチームではSEの外注制度を導入することに決めたのだが、SEの外注は、まだほとんど例がなく、そのためのルートも整っていなかった。雑誌の広告に頼るしかなかったのである。
ソフトウエアハウス探しを担当することになった中村が求めていたのはもちろんアプリケーションソフトの開発ではなく、交換機制御用のシステムを開発できるソフトウエア開発会社である。しかしいくら問い合わせてもそんな会社は見つからず、返ってくるのは、アプリケーションの開発しか行っていないという答えばかりだった。そんな折、知人から、一風変わった会社があると、一軒のソフトウエアハウスを紹介された。聞いたこともない会社だったが、会ってみると、通信分野に特化したソフト開発を専業としているという。「見つけた」と中村は思った。それは、アルファシステムズという名前の、小さなソフトウエア開発会社だった。
新会社設立の決意
アルファシステムズの創業者、石川義昭は、61年早稲田大学理工学部電気工学科を卒業すると大手の電子メーカーに入社した。61年は、電電公社が構想として掲げる全国ダイヤル通話網の完成を目指して、ダイヤルを回すだけで自動的に通話先と接続するクロスバ交換機の導入期にあたる。石川は、1年間無線回路のスケルチ部分の開発業務に従事。 63年には、翌年に開業を控えた新幹線開発プロジェクトが大詰めを迎え、石川は列車無線公衆電話のハードウエアを開発設計するチームに参加することになる。
その頃の石川の仕事はもっぱらハードウエアの開発設計だったが、しだいにそのハードウエアを動かすソフトウエアに興味を持つようになり、入社して4年目の65年、ソフトウエア開発に力を入れ始めていた別のメーカーに転職し、SEとしてのスタートを切った。
ソフトウエア開発の仕事に石川は熱中した。しかし、石川が理想としていたSEはジョブ・オリエンテッドSE、つまりシステムが使われる業務の内容に精通したSEで、それを追求してみたい気持ちが日々大きくなる。業務内容を理解してシステムを設計する、それは今でこそ当たり前のことだが、ソフトウエアがハードウエアから独立して歩き始めた当初は、まだ機械寄りのもので、ソフトウエアとしての独立した概念は理解されていなかったのである。そんな折、知人から電子交換機関連のソフトウエア開発を行う会社設立の話を聞いた。技術的にも特長があり、それを専門特化する会社として運営できる、そう考えた石川は、仲間の技術者とともに、新会社の設立を決意した。




