学び、考え、記憶し、知恵を蓄積し、広めたい、という欲望を人間は本能的に持っていて、それが人間とほかの動物の決定的な違いなのだ、と日本写真印刷の社史には書かれている。そしてその欲望を担う中核的な方法が印刷技術なのだと。
印刷の危機
人間は印刷を必要とし、動物はそれを必要としなかった。印刷は、コンテンツを何度でも再現可能なものにする機能によって、人類に文化をもたらしてきた。グーテンベルグが近代的な活版印刷術を確立したのは1455年頃だが、印刷技術の原型は紀元前4000年から3200年頃にかけて、文字の発明とほぼ同時に生まれていた。5000年から6000年もの間、印刷は人類の文化とともに歩んできたのである。
しかし20世紀の終わり近く、数千年にわたって印刷が担ってきたその役割は、新たに出現した担い手によって危機に直面する。デジタル技術によるコンテンツの再現と伝達が、印刷に取って代わろうとしていた。
日本写真印刷は、その名が示すように、印刷のなかでも特に質を重視する写真印刷や美術印刷を軸に、80年近い歴史を積み重ねてきた。それだけに、印刷そのものが持つ美術的価値や文化的 価値に対する思い入れは深い。
そのような印刷会社が、印刷の価値を根底から問い直すような、おそらくは印刷がその長い歴史のなかで初めて経験するような試練を、どのように乗り越えていったのか。
今回は、歴史の大きな変節点に立ち会った企業の、しなやかな進化の物語である。
不況が生んだ印刷会社

鈴木尚美社が製作した古美術品の目録(カタログ)。創業当初から志向していた高級美術印刷の技術が遺憾なく発揮されている
日本写真印刷が創業された1929(昭和4)年は、ウォール街で株価が大暴落し、世界恐慌が始まった年である。日本では27年に昭和金融恐慌が起こっており、第1次世界大戦後の反動不況、23(大正12)年に起こった関東大震災の影響などで、慢性的な不況が続いていた。
そうしたあおりを受けて、創業者、鈴木直樹が勤めていた、葛椏s新聞社の前身である京都日出新聞社は、採算のとれなくなった印刷・出版事業部門を閉鎖した。しかし、ドイツ製凸版機などの優れた機器を持ち、水準の高い美術印刷なども手がけていた印刷部門の閉鎖を惜しむ声は強く、日出新聞社は印刷事業を継承するものがあれば設備を譲ろうという方針であった。

毎日新聞社から発刊されていた『NEWJAPAN』。戦後日本の社会、文化、産業を紹介するシリーズ本で、写真と図版を駆使した印刷には高度な技術が要求された
これに応じたのが、美術に関心が高く、美術印刷に興味を募らせていた鈴木直樹だった。29年10月6日、鈴木は自宅に機械を持ち込んで印刷所を開業した。これが日本写真印刷の創業である。
この印刷所は32年には鈴木の自宅から中京区錦小路烏丸に移転され、鈴木尚美社と名付けられた。「活字印刷であれば誰でもできる。他社の手がけない高級印刷をやろう」と、鈴木は一貫して美術印刷を志向した。
鈴木尚美社の主な得意先は京阪神の古美術店で、入札やせりの時に使われる美術品カタログの製作が大きな仕事となった。これは当時でも数十万円する美術品を紹介するもので、それだけに最高品質の印刷技術が要求された。鈴木尚美社の評判は良く事業は発展し、38年3月には株式会社に改組された。
しかし、翌39年9月、第2次世界大戦が勃発すると、産業界は軍需一色となり、従業員も応召や徴用で駆り出されるものが多くなった。京都の印刷業界でも経営は苦しくなる一方で、しだいに合同への機運が高まっていった。
こうして鈴木尚美社をはじめ印刷会社15社が集まり、42年7月10日、日本写真印刷有限会社が発足した。日本写真印刷という名前は、高品質な印刷技術を志向する鈴木の理想が反映されたものであった。






