佐久間ダム・ブーム

佐久間ダムの記念切手
団塊の世代やそれに近い世代であれば、佐久間ダムと聞いてまず切手を思い浮かべる方も多いだろう。1960年代の切手収集ブームの頃には数多く流通していたもので、ブルーのモノトーンで描かれたダムのイラストの下に、佐久間ダム竣工記念と書かれている。56年10月15日に発行された記念切手である。「佐久間ダム」という記録映画も作られた。一般劇場で延べ約600万人の観客を動員し、記録映画としては異例のヒットとなった。ダム完成の翌年には昭和天皇、皇后両陛下も佐久間をご視察されている。
今でこそ出力35万kWの発電所ができたところで決して大きなニュースにはならないが、50年代後半の日本は、佐久間ダム完成のニュースに沸き立っていた。まだまだ電気の足りない時代だったのだ。この佐久間ダム建設で一躍その名を知られることになったのが電源開発株式会社、通称電発(当時)である。
電気が足りない!

1952年9月17日の電気新聞
戦時中、日本の電力は、国が設立した日本発送電株式会社と9配電会社によって国家管理のもとに置かれていたが、戦後、GHQの指示によって公布された「過度経済力集中排除法」によってこれらの会社は解体され、電力再編成が断行されることになった。その結果、51年5月、ブロック別に発送配電を行う9つの民営電力会社が誕生し、電力の国家管理は終わりを告げた。
この頃政府は、経済復興のベースを作るために次々と長期電源開発計画を策定し、福島、新潟を流れる只見川水系、長野、愛知、静岡を流れる天竜川水系をはじめ、各地で電力供給を拡充するための大規模な開発を計画していた。しかし発足したばかりの9電力会社にとって、そのための膨大な資金調達は容易なことではなかった。この間、50年6月に勃発した朝鮮戦争の特需景気で電力需要は急増し、さらにその頃の異常渇水により電力不足はピークに達した。
こうした状況のもと、与党の自由党内では特別法に基づく特殊法人を設立し、政府資金を主体とした大規模な電源開発を促進すべしという機運が高まりつつあった。このような状況を受けて、52年3月、「電源開発促進法案」が国会に提出されるに至り、同年7月31日に可決成立、即日交布された。
こうして、52年9月16日、国内の電力供給の増加を目的に、政府と9電力会社を株主として、電源開発株式会社が誕生した。






