CONTENTS on line vol.79 2007 ★ AUTUMN  

先駆者たちの大地

窓のむこうに世界が見える

旭硝子株式会社[5201]
創立100周年を迎えて、世界屈指のガラスメーカーとなった旭硝子。グローバル企業として成功を収めたその根幹には、創業者・岩崎俊彌のDNAが、時を超えて脈々と流れ続けていた。 写真館 企業の沿革 旭硝子の歴史

60cm2。タバコ2箱分にも満たない小さなガラス。明治末期まで日本で生産された板ガラスは、そんな小さなものでしかなかった。

易きになじまず、難きにつく

明治維新後、日本は富国強兵、殖産興業というスローガンのもと、鉄鋼、紡績、造船、機械といった産業を推し進め、近代化の道を突き進んだ。建築様式も急激に変化し板ガラスの需要は飛躍的に伸びていたが、日本はそのほとんどすべてを輸入に頼っていた。先進の欧米諸国からは大きく立ち遅れていた状態だったのだ。板ガラス工業は明治維新以前からひとつとして成功例がなく、それはいわば失敗の歴史であった。
1903(明治36)年にロンドン留学から帰国した岩崎俊彌が板ガラスの国産化に挑戦しようと決意したのは、そんな時代だった。

「易きになじまず、難きにつく」

旭硝子創業者・岩崎俊彌の言葉は、まさに欧米から大きく遅れをとっていた日本の板ガラス製造への挑戦だった。

旭硝子創業

創業者・岩崎俊彌
創業者・岩崎俊彌

岩崎俊彌は、1881(明治14)年、岩崎彌之助の次男として生まれた。父・彌之助は、三菱財閥を一代で築いた岩崎彌太郎の実弟であり、後年は第4代日本銀行総裁を務めた。兄は後に三菱本社社長となった岩崎小彌太、母・早苗は明治維新の元勲、後藤象二郎の長女である。将来を約束された実業家の道をいくらでも選べたはずだが、俊彌はあえて茨の道を選んだ。

「人がやっていない事業はほかにいくらでもあるが、やる以上はこの国のためになること、この国に暮らす人のためになることをやり遂げたい」

それが俊彌にとっての板ガラス製造に賭ける思いであり、それはまた、旭硝子の創業精神となっている「易きになじまず、難きにつく」という信念であった。

まもなく俊彌は、板ガラス事業のパートナーを探していた島田孫市と出会う。島田はベルギーで板ガラス製造窯の設計に関する契約を交わして帰国したばかりだった。人を介して話し合いの場を持った2人は意気投合し、1906(明治39)年12月23日、資本金75万円で大阪島田硝子製造合資会社を設立した。

当初の計画では卓上食器類などのガラス器具を製造して利益をあげ、それから板ガラス製造に進出するはずだった。しかし手作業によって生産されたガラス製品は品質が悪く、たちまち在庫の山を抱えることになった。
俊彌と島田の経営方針にもしだいに違いがみられるようになった。島田は既存の天満工場を拡張して事業を発展させていく意向であったが、俊彌は当初から、板ガラス工場専用の広い敷地をほかに探すべきだと考えていた。板ガラス事業は、近代工場にふさわしい新しい場所、新技術に対応できる新しい人材で始めるべきだと、俊彌は考えていたのである。
結局意見の一致はみられず、2人は袂を分かつことになった。

それからの俊彌の行動は早かった。1907(明治40)年8月に兵庫県尼崎町で約2万坪の工場用地を買収し、同年9月8日、板ガラス事業のための新会社を設立した。今日の旭硝子株式会社の誕生である。
翌年の秋、ベルギー人技師フィエベが来日し、その指導のもと、溶解能力36tの溶解窯(1号窯)と工員の練習のための6tの溶解窯(2号窯)を持つ、日本で最初の近代的板ガラス専用工場の建設がスタートした。工事は着々と進み、春の訪れとともに高さ35mの大煙突が姿を現し、工場はほぼ完成した。

1909(明治42)年4月3日、6t溶解窯の火入れが行われると、期せずして万歳三唱が沸き起こった。秋も深まった頃には商業生産用の36t溶解窯も完成し、11月10日に火入れが行われ、17日から本格的な操業を開始した。俊彌が板ガラス国産化を志してから、4年の歳月が流れていた。
1910(明治43)年初旬、初めて市場に製品が出荷された。そしてその板ガラスには俊彌自ら考案した「菱印」が付けられた。

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