重化学工業の発展を目指して

戦後、日本の進むべき道は重化学工業による貿易立国と考えていた西山は、以前から高炉による銑鋼一貫体制の構想を持っており、川崎製鉄創立後、早速、千葉における一貫製鉄所の建設計画を発表した。
しかし、創立間もない資本金5億円の新会社が、総額163億円の製鉄所を建設することに対しては、世間から疑問の声があがった。真偽のほどは明らかではないが、金融引き締め政策を実行していた当時の一萬田尚登日銀総裁が、「製鉄所にペンペン草を生やしてみせる」と発言したというエピソードは有名な話である。
世間の目には無謀な計画と映り、批判されたが、西山は今後の日本経済の発展のためには、世界最新鋭の鉄鋼生産設備を有する、貿易に有利な臨海製鉄所が不可欠であるとの不退転の決意を持って、周囲の説得にあたり、ついに製鉄所の建設を開始した。

53年6月、千葉製鉄所は第1高炉の火入れを行い、58年3月には第2高炉に火入れをして、川崎製鉄の銑鋼一貫体制は整った。第2高炉火入れの3カ月後から始まった岩戸景気は鉄鋼需要を急速に拡大させ、この波に乗って千葉製鉄所の増強はその後も続いた。
さらに60年代に入ると川崎製鉄は岡山県水島地区で千葉製鉄所に続く水島製鉄所の建設を開始し、67年4月、第1高炉の火入れを行った。
日本はいざなぎ景気の真っ只中にあった。前述のように、この時代、鉄鋼業は驚異的な飛躍を遂げていったが、過当競争による弊害も見えてきた。そうしたなかで起こったのが鉄鋼大再編である。70年3月31日、八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄株式会社が発足したのである。
新日本製鉄は粗鋼生産量でアメリカのUSスチール社を抜き、一気に世界最大の鉄鋼会社となった。これ以降、日本の鉄鋼会社は、新日本製鉄、NKK、川崎製鉄、住友金属工業、神戸製鋼所の5社が粗鋼生産の6割以上を占める、高炉5社体制のなかで歩んでいくことになる。






