2002年9月27日。この日、日本の鉄鋼業界の地図は大きく塗り替えられた。
業界2位のNKKと3位の川崎製鉄が持株会社JFEホールディングスに株式を移転し、経営統合を果たしたのである。
この経営統合によってNKKと川崎製鉄は、新日本製鉄と粗鋼生産規模や売上高の面でほぼ拮抗する鉄鋼会社となった。
1970年に八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄が誕生して以来、32年ぶりの鉄鋼大再編であった。
99年末、川崎製鉄の江本寛治社長が「酒でも飲んで話をしましょう」と、NKKの下垣内洋一社長に声をかけた日から、3年の月日が流れていた。
NKKの創立〜神の采配

NKK(日本鋼管)の創立は明治末期にさかのぼる。当時、帝国大学を卒業して官営製鉄所の設立に参加した今泉嘉一郎は、大倉組の大倉喜八郎に顧問として迎えられ、民間初となる鋼管製造の事業化計画に取り組んでいた。
今泉が目指していたのは、鋼管のなかでも最高級品といわれ、官営製鉄所でもまだ手がけていなかった継目無鋼管の製造である。しかも平炉製鋼を行って鋼塊を自製しようという計画であった。
平炉製鋼を行うには原料となる鉄くずと銑鉄がいる。鉄くずはまだしも銑鉄の調達が難しく、計画は難航していた。資本金200万円の株式募集に世間の関心は薄く、大口需要家からも確実な受注保証が得られない。大倉喜八郎もこの事業化には悲観的になりかけていた。

そんな折である。今泉のもとを、大学の同期生であり同じボート部の仲間であった白石元治郎が訪ねてきた。白石は浅野財閥の船会社であった東洋汽船鰍フ経営に携わっていて、航路開拓のためインドへ出張した時に、ベンゴールという製鉄会社で銑鉄が盛んに生産されるさまを見ていた。この銑鉄が日印間の船荷として有望かどうか、それを確かめるために今泉を訪ねてきたのだった。
神の采配というほかなかった。廉価なインド銑鉄を安定的に入手できるなら、継目無鋼管の素材となる鋼塊を平炉製鋼で量産できる。今泉は白石に鋼管製造事業化の計画を打ち明け、経営への参画を要請した。こうして12(明治45)年6月8日、民間初の鋼管製造会社として日本鋼管株式会社が設立され、初代社長に白石、技師長に今泉が就任した。






