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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2005年秋号 Vol.71
 

錆びない企業になる方法。
日新製鋼株式会社

合併契約書に調印する岡田儀一日本鐵板社長と田中徳松日亜製鋼社長
合併契約書に調印する
岡田儀一日本鐵板社長と
田中徳松日亜製鋼社長


特需を背景に生まれた小さなめっき工場が
やがて日本を代表する鉄鋼大手5社のひとつへと発展する。
時代の大きな波にもまれながら、
決して錆びつくことなく生き残ってきた
日新製鋼の足跡をたどってみる。

田中亜鉛鍍金の創立当初
日新製鋼の源流のひとつ、田中亜鉛鍍金の創立当初の写真。
瓦葺き木造50坪の小さな工場からすべては始まった

産声

 まず、鉄が必要だった。鎖国の時代が終わり欧米列強の脅威を目の当たりにして、明治政府は近代化に躍起だった。そのための重要課題として富国強兵と殖産興業を掲げたが、軍艦を造るにも工場を造るにも鉄が欠かせず、日本を近代化させるためには自前の鉄がまず必要だった。しかしすでに近代的な高炉技術を実用化させていたヨーロッパに比べて、日本の製鉄技術の立ち遅れは著しかった。1894(明治27)年には日清戦争が勃発して鉄鋼需要はますます増大し、ここに至って政府は官営製鉄所を設置して技術を牽引し、鉄鋼産業の発展を一気に促そうと決意した。こうして1901(明治34)年2月、官営八幡製鐵所は日本初の大型160トン高炉に火入れをして、日本の鉄鋼産業の歴史が始まった。
  それから7年後の1908(明治41)年、大阪市浪速区で田中亜鉛鍍金という小さなめっき工場が産声を上げた。
  瓦葺き木造50坪ほどの町工場で、町の人たちが使う金物や船具などを亜鉛めっき加工するのが主な仕事だった。日露戦争の特需を背景に雨後の筍のように生まれた鉄鋼関連会社のひとつにすぎなかったこの町工場が、やがて激動の鉄鋼産業史を生き残り、21世紀には日本の鉄鋼大手5社のなかで独自のポジションを築くことになるなど、工場主の田中松之助でさえも想像もしていなかったことだろう。

平炉メーカーに成長

 田中亜鉛鍍金はなかなかの人気で、仕事もめっきの賃加工からしだいに小型タンク、ボイラー、製氷缶、ガス管などの亜鉛めっき製品に広がっていった。1914(大正3)年には駆逐艦に使用される鋼板のめっき加工を依頼され、これを機に西区境川に230坪の分工場を建設して鋼板の亜鉛めっきに進出し、さらにこの年、日本が第1次世界大戦に参戦すると艦船用の鋼板や部品の大量受注が相次いで、田中亜鉛鍍金は町工場的な形態から企業と呼べる規模へ成長していった。
  田中亜鉛鍍金だけではなかった。大戦景気のおかげで鉄鋼業界は羽振りがよく、新会社も次々に生まれていた。そんななか、日新製鋼のもうひとつの源流となる亜鉛鍍株式会社の創立に参加した佐渡島英禄が、新たな亜鉛鉄板製造企業を立ち上げようと田中亜鉛鍍金に声をかけてきた。先代を継いだ田中亜鉛鍍金の代表者田中徳松は新たな発展策を模索中で、すぐさまこの計画に共鳴し、1917(大正6)年1月、境川工場を本社とする平浪鐵板鍍金合名会社が設立され、翌年には早くも株式会社組織へ移行し、日本亜鉛鍍株式会社としてスタートを切った。
  しかしこの年、1918(大正7)年に第1次世界大戦が終結すると景気の反動が訪れ、そのあおりで大戦中に乱立した中小亜鉛めっきメーカーは相次いで倒産に追い込まれていった。現在でも鉄鋼業界は景気の影響を受けやすい景気循環型業種だが、特にこの頃の亜鉛鉄板業界は需要が増加すると中小メーカーが乱立し、その結果、生産過剰となって価格の暴落を招き、多くのメーカーが脱落していくという不安定な体質を持っていた。
  そうしたなかで日本亜鉛鍍は新工場の建設や新規設備投資を果敢に行い好調な業績を上げていたが、1927年の金融恐慌と1929年の世界恐慌に至って深刻の度を増し、海外市場の開拓に活路を求める一方、徹底した人員の合理化や本社社屋の売却など思い切った不況対策を講じて踏みとどまっていた。底なしの不況にようやく回復の兆しが見えたのは、1931年9月の満州事変で軍需が増大し始めた時である。
  この頃政府は、日本の製鉄業をより強固にするためには、官営八幡製鐵所を中心として民間の製鉄所をひとつにまとめる製鉄合同が必要との見解に達し、1933年、半官半民の巨大製鉄所、日本製鐵が誕生した。日本亜鉛鍍が次の発展段階を迎えるのは、この日本製鐵から、製品に加工する前の半製品であるビレットの供給を受けるようになった時である。それまで日本亜鉛鍍は亜鉛鉄板の素材となる鋼板を輸入品で賄っていたが、1935年4月、尼崎に新工場を完成させ、ビレットを薄く延ばして鋼板に仕上げる圧延に着手し、5月には社名を日本亜鉛鍍鋼業株式会社と改称した。
  1937年に日中戦争が始まると鉄鋼需要は年々増大し、各メーカーの増産によって原料が不足がちになってきた。そこで日本亜鉛鍍鋼業は原料の自給を目指して、屑鉄を利用して精錬を行う平炉を3基建設し、1938年に火入れをして鉄の精錬から製品生産までを自社で行う平炉メーカーへの脱皮を果たした。こうして生産内容が亜鉛鉄板から重工業へ完全に移行したため、1939年9月、日本亜鉛鍍鋼業は日亜製鋼株式会社へと社名を変更した。そして第2次世界大戦後、いち早く復興を果たした日亜製鋼は次の段階へと歩を進めていく。広島県呉市の旧呉海軍工廠跡地の払い下げを受けて新工場を建設、ここに21億円の巨費を投じて1953年7月、ホットストリップミルを完成させた。ホットストリップミルは鋼片を加熱して薄く延ばす熱間圧延の装置で、国内では、戦後、日本製鐵が解体して生まれた八幡製鐵が1基持っていただけの最新設備だった。こうして日亜製鋼は平炉メーカーのなかでも頭角を現し、しだいに独自のポジションを確立していった。

日本初のステンレス一貫生産体制

 鉄はそのままの状態では錆びる宿命にある。それを防ぐために表面に亜鉛めっきを施したものが亜鉛鉄板で、その将来性にいち早く着目していたのが先に登場した佐渡島英禄らである。佐渡島らは1911(明治44)年5月、日本で最初の民間亜鉛鉄板メーカー、亜鉛鍍株式会社を大阪市南区で立ち上げた。これが日新製鋼のもうひとつの源流である。当初は年間600トンの生産がやっとという小規模な設備で苦しい経営だったが、苦心の末、半年ほどで生産は軌道に乗り始めた。第1次世界大戦が始まり軍需が増大すると、亜鉛鍍は原板の自給自足を目指して薄鋼板圧延に着手することを決定し、徳山分工場を新設して1918(大正7)年から圧延作業を開始した。この間、1916(大正5)年には大阪鐵板製造株式会社へと商号変更を行った。しかし原板の自給自足体制が整わないまま、1927年から底なしの不況に突入し、大阪鐵板製造は苦しい戦いを続けていた。そこで徳山分工場の分離独立を決意し、1928年、大阪鐵板製造は亜鉛めっきメーカーの大阪鐵板製造と薄鋼板単圧メーカーとしての徳山鐵板とに分離された。その後、1951年9月のサンフランシスコ条約で日本が独立を取り戻すと、鉄鋼業界では第1次合理化が始まり、大阪鐵板製造と徳山鐵板はこの趨勢を背景に合併を果たし、1953年10月、日本鐵板株式会社として正式発足した。
 1950年代後半に入って日本は新しい成長の段階を迎え、1956年から鉄鋼第2次合理化が始まった。この時、日本鐵板は、まったく未知の分野への進出計画を発表した。ステンレスの一貫生産計画である。電気炉から熱間圧延のホットストリップミル、冷間圧延のセンジミアミルまでが一連となって稼働し月産2,500トンを生産する。当時国内のステンレス生産量が月産2,000トン前後だったことを考えれば、1社で全国生産量を上回るこの計画がいかに壮大なものだったかわかる。通産省(現・経済産業省)の承認を取り付けた日本鐵板は、40億円の予算を投じて1957年11月から山口県南陽町で工場建設を開始し、翌年6月に1号センジミアミルが完成した。これは日立製作所が製作した国産第1号機であると同時に、日本初の広幅圧延用センジミアミルであった。こうして1958年12月に発売された広幅極薄ステンレス板は、高精度・高品質で価格も安く、爆発的ヒットとなった。日本初のステンレスの一貫生産体制がこうして実現したのである。

日新製鋼誕生

 第2次合理化が始まった1956年頃から、鉄鋼業界では同系列メーカー間の競合や設備の二重投資などが問題とされ始めた。日亜製鋼と日本鐵板は共に八幡製鐵と縁が深く、しかも鋼を圧延しやすい形にする分塊と熱間圧延の設備は日亜製鋼にあり、熱間圧延された鋼板をさらに薄く延ばす冷間圧延設備は日本鐵板にあるという補完関係にあった。日亜製鋼呉工場の分塊設備と日本鐵板南陽工場のセンジミアミルが一体化すればステンレスで全国を席巻することも可能になる。こうして両社の合併構想が固まり、1959年4月1日、東京都中央区八丁堀の旧日本鐵板本社をそのまま本社として日新製鋼株式会社が誕生した。
 1959年から1960年にかけて、鉄鋼業界は民間設備投資ブームを背景に生産拡大の一途をたどっていた。創業間もない日新製鋼の業績も目覚ましく、特にいち早くセンジミアミルを導入したステンレス部門の伸びは著しかった。そしてステンレスに続いて日新製鋼が力を注いだのが表面処理部門である。これまでの東京工場が手狭になってきたため千葉県市川市に新鋭の表面処理工場を建設し、平炉専業であった尼崎工場に最新の特殊連続亜鉛めっき設備を導入した。日新製鋼の着色亜鉛鉄板のブランド「月星カラー」を月産2,500トン生産する一貫体制がこうして整い、日新製鋼は一躍、表面処理のトップメーカーに躍り出た。そして、いよいよ次の飛躍の時期が近づいてくる。

真っ青な大海を目指して

 鉄は、まず高炉で鉄鉱石の炭素を減らして銑鉄を作り、次に転炉や平炉で不純物を取り除いて最後に圧延工程で薄く延ばして製品にする。このすべての工程を一貫して行う鉄鋼メーカーを銑鋼一貫メーカーと呼ぶが、高炉を建設するには少なくとも100億円程度の巨額な投資が必要となるため、第2次合理化後の時点で日本には大手の6社しかなかった。日新製鋼は平炉以降の工程を行う平炉メーカーで、1959年11月に発表した長期計画もあくまでも実現可能な線を追求した平炉メーカーとしてのものだった。しかし平炉に不可欠な屑鉄の供給は不安定で、銑鉄の供給も一貫メーカーに依存せざるを得ず、生産量やコストなどあらゆる面で一貫メーカーの優位性は明らかだった。そのうえ一貫6社は、第3次合理化では新製鉄所の建設によってさらに支配体制を固めようとしていた。投資額を考えれば容易に決断できることではなかったが、業績が着々と伸びていたこともあって、日新製鋼はついに高炉の建設を決断した。こうして1962年5月、総工費90億円、1年4カ月の工事期間を経て高炉が完成し、6月1日に火入れが行われて、日新製鋼は銑鋼一貫メーカーとして新たな一歩を踏み出したのである。一貫メーカーとなってからの日新製鋼の歩みは順調で、90年3月期の決算では同社史上最高の経常利益586億円をあげた。「鉄冷え」といわれた90年代の99年3月期こそ23年ぶりの赤字決算となったが、2005年3月期には持ち直して過去最高益となる経常利益601億円を達成した。2002年には70年に新日本製鐵が誕生して以来32年ぶりの業界再編が行われ、そのなかで日新製鋼は新日本製鐵、JFEホールディングス、住友金属工業、神戸製鋼所と並んで、大手5社に名を連ねている。
 瓦葺き木造50坪の小さなめっき工場がここまで成長した要因はどこにあるのだろうか。これまでの鉄鋼産業の歴史が証明するように既存市場で同業社が争えばお互いに自滅する。小野俊彦・日新製鋼現社長は、お互いの血で染まるレッドオーシャンを避け、真っ青なブルーオーシャンを行く、と表現した。「誰もやらなかったことをやる」という戦略である。現在日新製鋼の3本柱となっているステンレス、表面処理、特殊鋼は、すべてそうして培われてきた。日新製鋼の歴史は痛快な成長の物語である。そしてその物語は新たな展開とともに、まだまだ続いていくだろう。





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