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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2005年夏号 Vol.70
 

技術は、エンターテインメント
株式会社東芝

田中久重
[久留米市教育委員会所蔵]


東芝が再び動き始めた。
老舗の総合電機メーカーの個性が
見えにくくなっている今、
その起死回生の戦略とは何か。
答えは、130年前の天才技術者の
発想にあった。

東芝の創業者・田中久重が、江戸時代後期に作ったからくり「弓射り(曵)童子」。人形が自分で矢を取り上げ、つがえて、的を射る。頭部の細かな動きによって、射手の満足げな様子が再現される[久留米市教育委員会所蔵]

感情的なからくり

 「弓射り(曵)童子」と呼ばれる、江戸時代に作られたからくり人形がある。ゼンマイ仕掛けの人形が矢台に置かれた矢を自分で取り上げ、弓を絞って的を射る。人形は4本の矢を順番に放って的に当てていくのだが、その生き生きとした動きによって、動かないはずの表情すら満足げに微笑んでいるように見える。からくり人形のなかでも、間違いなく最高傑作のひとつといってよい。しかし、この人形が秀逸なのはその精密な動きだけではない。人形は、4本の矢のうち1本をわざと的からはずし、観客の予想を見事に裏切ってみせるのだ。細かな動きによって、その時の人形はあたかも悔しがっているようですらある。そしてこの意外な心にくい演出に、観客は的が当たった時以上の反応を見せる。
  この人形を製作したのは、「からくり儀右衛門」と呼ばれた天才発明家、田中久重(たなかひさしげ)である。久重は優れた技術者であったが、ただ高度な技術の開発を目指していたのではなかった。常に彼の心にあったのは、技術によって人を喜ばせたいという思いである。そして今、創業から130年を経て、この「人を喜ばせる技術」という理念によって変わろうとしている企業が、後に田中久重が創業した東芝である。

からくり儀右衛門、デビュー

 田中久重は、1799年(寛政11年)、久留米のべっこう職人の長男として生まれ、幼名を岩次郎(一説によると儀右衛門)といった。幼い頃から手先が器用で、8歳の時には、寺子屋仲間が久重の硯箱にいたずらをするのに業を煮やし、紐の細工によって鍵がかかる「開かずの硯箱」を作って仲間を驚かせた。しだいに発明の才に目覚めた久重はさまざまな箱細工を作り、14歳の時、近所に住む久留米絣の考案者・井上伝に頼まれて、絣に絵模様を織り込むための織機を完成。久重は発明家としての自信を深めていった。久重がからくりを作り始めたのもこの頃である。久留米藩城下の五穀神社では春と秋に盛大な祭礼が行われていたが、そこで人気を博したのがからくりであった。久重はここでからくりと出会う。人形が手にしたお盆にからくり師が茶碗をのせると客の前まで運び、客が飲み終わった茶碗を再びお盆にのせると戻ってくる。久重はこの茶汲み人形に魅了され、からくりづくりに心を奪われた。久重の父・弥右衛門が長崎土産に買ってきた『機巧図彙』という本を参考に、久重は、茶汲み人形を再現するだけでなくさまざまなからくりを作り、五穀神社で披露した。こうして久重はからくり興行に出品するようになり、その精巧な仕掛けと独創性は絶賛された。久重21歳、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになった頃のことである。
  からくり師として身を立てる決意を固めた久重は、からくりに新機軸を導入するため、長崎、大阪、京都、江戸へと技術修得の旅に出かけた。1820年(文政3年)の江戸への旅では、オランダ渡来の空気銃「リクトパルレン(風砲)」を模造し、空気圧ポンプの技術を修得。結果的に、こうした旅は久重のなかに近代技術者としての萌芽を形作るものとなっていった。かくして一流のからくり技術を身につけた久重は、1824年(文政7年)から諸国を興行し、「からくり儀右衛門」の名を全国に知らしめた。特に大阪・道頓堀での興行は50日に及ぶロングランと、大成功を収めている。
  しかし天保年間(1829年〜)に入り各地で藩政改革が始まると、娯楽や贅沢品は取り締まりを受けるようになり、からくり興行も難しくなってきた。そこで久重は新たに実用品の製作・販売を始めようと、1934年(天保5年)、妻子を連れて大坂へと旅立った。久重35歳。いよいよコンシューマー(一般消費者)ビジネスの始まりである。

天才発明家から近代技術者へ

 江戸末期に都市で産業が発達してくると、人々は夜も仕事や遊びに費やすようになり、明かりの需要が拡大していた。久重はそうした時流を捉え、まず「懐中燭台」を売り出した。これは懐に納まる携帯用ロウソク立てで、医師の往診などに重宝がられてヒットした。ところでロウソクや行灯など当時の照明は、携帯用はまだしも、室内を照らすには明るさが不十分で、しかも隙間風が吹くと炎が揺れて安定しない。そこで久重は、かつて江戸への旅で修得した「リクトパルレン」の技術を応用し、行灯の燃料であった菜種油を空気圧ポンプで加圧して、灯芯に強制的に送り込む機構を考案した。この機構を応用したのが「無尽灯」で、燃料を多量に燃焼させることでロウソクの約10倍という明るさを実現させ、さらに炎をガラス製のホヤで覆ってチラつきも解消した。この商品も新しいライフスタイルの要求に応える画期的な商品として大いに喜ばれた。
  こうして商売は順調に発展していったが、1837年(天保8年)2月、大塩平八郎の乱が起こる。幕政に抗議して蜂起した民衆は米屋や豪商を襲い、大阪の町は大混乱に陥った。久重と家族は避難して無事だったが、3年間で築き上げた財産はすべて失われてしまった。家を失った久重と家族は、親戚を頼って伏見(現在の京都市伏見区)に移り、再起を図った。発明家としての成功を手にした久重が次に目指したものは、和時計の製作であった。当時、最先端のテクノロジーと考えられていたのが時計で、そのために久重は、この時代にさまざまな科学知識を修得している。なかでも天文暦学については、名門土御門家に入門し、仕事のあと深夜まで毎晩通いつめた。土御門家は安倍晴明を始祖とし、天文学と陰陽道で朝廷に仕えた公家で、久重はここで時刻、暦、天体についての知識を次々に吸収していった。
  1847年(弘化4年)、久重は四条烏丸に「機巧堂(からくりどう)」を開店して事業を拡大する。ここで懐中燭台や無尽灯を本格的に生産し、また和時計を製作しながら時計師としての技に磨きをかけた。そうして培われた知識、技術、アイデアのすべてが、やがて和時計の最高傑作といわれる「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」に活かされていく。

和時計の最高傑作「万年自鳴鐘」

 久重がその技術のすべてを注ぎ込んだ「万年自鳴鐘」は、1851年(嘉永4年)に完成した。高さ約60cm、それぞれ異なる時計が埋め込まれた6つの面を持ち、天頂部には、正確に描かれた日本地図上を月と太陽の位置を示す金属球が移動する天球儀(プラネタリウム)が取り付けられている。6つの面はそれぞれ、昼と夜の長さによって時刻の間隔が変化する和時計、太陽の動きによって1年を24等分した二十四節気の記入板、曜日を示す七曜、十干十二支の日付、旧暦1カ月の日付と月の満ち欠け、西洋時計となっている。さらに時を知らせる鐘。これだけの機構がすべて連動して動く。動力は真鍮製のゼンマイで、1回のネジ巻きで約1年間作動したといわれている(1949年の分解調査では225日間の作動が確認された)。

東芝創業

 1868年、265年続いた徳川幕府が滅び、時代は明治へと変わった。翌年、初の通信事業が東京−横浜間で開始されたが、機械はすべて外国製で、電信網を整備して国を近代化させるためには電信機器の国産化が不可欠だった。その開発のために明治政府が白羽の矢を立てたのが田中久重だった。この時久重はすでに70歳を超えて故郷久留米に戻っていたが、工部省の再三の招きで、1873年(明治6年)、ついに上京した。早速、機器の開発に成功し高い評価を得た久重は、受注の拡大を機に、2年後の1875年(明治8年)7月1日、銀座の煉瓦街(現在の銀座8丁目)に後の田中製造所となる店舗兼工場を創設した。これが日本最初の電信機器工場であり、東芝の発祥である。
  久重はその6年後、1881年(明治14年)、82歳でその生涯を終えた。田中製造所は久重の養子である田中大吉改め2代目久重が継ぎ、事業を電気工業に絞って、エレクトロニクス産業の基礎を築くことになる。当初は順調に発展したが、徐々に苦境に陥り、1893年(明治26年)には、「芝浦製作所」と改名した。この頃、電気機械分野に参入して重電メーカーとしての歩みが始まった。1904年(明治37年)に日露戦争が始まると好景気で好調が続き、それを機に、同年7月1日、「株式会社芝浦製作所」が誕生した。1909年(明治42年)には海外の先進技術を導入するためにアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携し、以後、重電メーカーとして大いなる飛躍を遂げていった。
  一方、芝浦製作所に先駆けて、1905年(明治38年)にGE社と提携した会社が、東芝のもう一人の創業者、藤岡市助(いちすけ)が興した東京電気株式会社である。
  市助は、1884年(明治17年)、工部大学校(現在の東京大学工学部)の教授時代に、国の使節としてアメリカの電気産業を視察し、その時エジソンと会見している。エジソンは市助に、「どんなに電気が豊富でも、電気器具を輸入しているようでは国は滅びる。まず電気器具の製造から手がけなさい」とアドバイスした。感銘を受けた市助は日本の電気産業の発展に力を尽くすことを決意し、教職を辞したあと、1890年(明治23年)、白熱電球を製造する合資会社「白熱舎」を設立、1899年(明治32年)、社名を「東京電気」に変更した。業績は良くなかったが、前述したように1905年にGE社と提携し、大会社へと発展していった。
  昭和に入り、1931年の満州事変、1937年の日華事変を契機に軍需景気が促進され、経済は空前の活況を呈していた。この頃、東京電気の社長だった山口喜三郎の頭には、重電の芝浦製作所と軽電の東京電気を合併し、日本のGE社ともいうべき一大総合電機メーカーを実現しようとする構想があった。かくして1939年7月1日、久重が初めて銀座・煉瓦街に工場を構えた日と同じ日に、総合電機メーカーの東京芝浦電気株式会社が誕生。その後、1984年に、社名は現在と同じ株式会社東芝に変更されている。

現代のマーケットを熱狂させる「機巧(からくり)」

 2001年、それまで世界経済の景気を牽引してきたIT産業が、米国のITバブル崩壊により急速に力を失い、ハイテク産業を中心とした世界同時不況の様相を呈する厳しい状況となった。こうした事業環境のもと収益悪化に苦しんだ東芝は、グループ経営の早期強化を図るため、事業の集中と選択による競争力強化、軽量化経営、コーポレート・イニシアティブによる調達コストの低減を柱とした経営施策「01アクションプラン」を策定し、実行に移した。主な施策として汎用DRAM事業からの撤退や、液晶事業およびブラウン管事業での再編を進めたほか、調達コスト削減、資産圧縮を加速して、当初の計画を達成。その成果は2003年度、連結営業利益の大幅増益−前年度比590億円増益の1,745億円となって現れた。その後、2003年3月に発表した中期経営計画では、成長が継続することが期待される「デジタルプロダクツ事業」および「電子デバイス事業」、そして安定的な事業機会があると考えられる「社会インフラ事業」の3つを主力事業ドメインと位置付け、これら事業の伸長を図るための体制を整備。それ以降、「成長性と安定性を兼ね備えた高収益の企業グループ」への変革を目指す事業展開が続く。
  2003年度、電子デバイス事業は、NAND型フラッシュメモリの好調を中心とした半導体事業の伸長と液晶事業の改善により大幅に増益を達成、社会インフラ事業も増益となるも、デジタルプロダクツ事業のパソコン(PC)事業では474億円の営業損失を計上する。東芝は「デジタルプロダクツ事業」の成長戦略の再構築を検討。2004年4月、パソコン事業の収益改善に加え、新たな収益の柱として映像技術とストレージデバイス技術を核とした映像事業の強化策を「映像の東芝」として発表した。「映像の東芝」の戦略商品の一例として商品化したのが、ハードディスク駆動装置(HDD)を内蔵した液晶テレビ「ちょっとタイム[フェイス]LH100シリーズ」。簡単な操作で高画質のデジタルハイビジョン映像をテレビだけで録画可能としている。さらにこの録画機能を背景として、不意の来客等で離席しても大事なシーンを見逃すことのない「ちょっとタイム」機能や、いつでも好きな時間にニュースを見ることができる「今すぐニュース」機能など、テレビの視聴環境をさらに便利にする機能も搭載されている。一方、パソコン事業では、同事業の構造改革施策の遂行に加え、差異化商品として2004年8月にノートPC「Qosmio(コスミオ)シリーズ」を発表した。東芝独自の高画質エンジン“QosmioEngine”を搭載し、それまでのノートPCではできなかったリアリティある映像美と大口径スピーカーによる高音質を実現した画期的なノートPCである。さらに、2005年3月に創業130周年の戦略商品として発売された同シリーズの最上位機種「Qosmio G20」では“QosimoEngine”が一層強化され、東芝独自のRAID機能も加わった。これら独自技術を投入した商品力は、パソコン事業が2004年度、一転して81億円の営業利益へとV時回復を成し遂げる一翼を担った。
  これまで東芝は技術力への信奉が強く、ともすれば市場への対応を過小評価しがちな傾向があった。しかしこうした商品では技術そのものよりも、技術を使ってユーザーに新たな喜びを提供することに心が砕かれている。明らかに、田中久重が追い続けた「人を喜ばせる技術」の再現である。
  創業者の意思に立ち返った東芝が感じさせる新たな息吹。「弓射り(曵)童子」が1本の矢をはずして観客を熱狂させたように、これからの東芝がどのようにマーケットを沸かせるか。新しい「機巧(からくり)」を見逃すわけにはいかない。

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