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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2004年新春号 Vol.64 |
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創業者
岩崎彌太郎 |
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2003年度、巨大商社、三菱商事は、
会社の存続をかけた企業変革の次なるステージに進もうとしている。
日本企業がかつての総合商社機能を必要としなくなった今、
総合商社の存在意義はどこにあるのか。
三菱商事が出した答えは、価値創造商社への道であった。
その成果は、どうだったのか。
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ブルネイ産LNG(液化天然ガス)の輸入積み込み。
1969年のブルネイLNG開発プロジェクトから、
三菱商事の改革への胎動が始まった |
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変革の最初の遺伝子
1969年12月。三菱商事社長、藤野忠次郎は、契約書にサインする手の震えを抑えることができなかった。失敗すれば三菱商事が3つ潰れるとさえいわれた巨大プロジェクト「ブルネイLNG開発プロジェクト」の、これが始まりであった。
石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェルは、三菱商事に対しバイヤーとしてではなく、投資パートナーとして液化・輸送会社への出資を打診していた。商社の海外大型投資は、まだほとんど例のない時代だった。三菱商事が見積もった投資額は約1億から1億5,000万ドル。社運をかけることになりかねないこのプロジェクトを前に、プロジェクトチームは研究に研究を重ねた。結果的に、三菱商事は、1億2,500万ドル(当時の為替レートで約450億円)の出資を決定。シェルと三菱商事が各45%、ブルネイ政府が10%を出資して、合弁会社「ブルネイLNG」は設立された。当時の三菱商事の資本金をはるかに上回る巨額投資であった。ブルネイで産出された天然ガスは液化されてLNG(液化天然ガス)となり、翌年から日本への供給が開始された。今日では、資源を持たない日本の5割近くのLNGを三菱商事が供給するに至っている。
この三菱商事始まって以来の巨大プロジェクトの成功は、事業規模の大きさ以上に、三菱商事にとって大きな意味を持っていた。三菱商事が「商社冬の時代」「商社不要論」が叫ばれた風雪に耐え、やがて大きな変革を遂げていくための最初の遺伝子を、──まるで植物の種子が成長の因子のすべてをそのなかに含んでいるかのように──すでにブルネイLNG開発プロジェクトは、そのなかに宿していたのである。
三菱商事誕生
総合商社は、知られているように日本独自の企業形態である。日本は総合商社を必要とし、総合商社は日本の成長とともに歩んできた。果たして、総合商社の機能とは何なのだろうか。
ここで、三菱商事の歩みをざっと振り返ってみよう。起源は、1871年(明治4年)にさかのぼる。この年、土佐藩の大阪藩邸の上席者であった岩崎彌太郎が、土佐藩から分離して海運業を始めた九十九商会の経営を引き受けることとなった。これが三菱の創業である。九十九商会は船旗号として使用していた三角菱のマークにちなんで1873年(明治6年)に三菱商会と改称。1875年(明治8年)には政府の海運振興策の助成を受けることとなり、これを機に郵便汽船三菱会社と改称し、日本有数の海運会社として発展していった。しかし、政府の支援で新たに設立された共同運輸会社との間に激しい競争が起こり、両者共倒れを懸念した政府の方針により、1885年(明治18年)、三菱は共同運輸会社との合併を余儀なくされた。こうして両社が合併して日本郵船会社が創設され、郵便汽船三菱会社は閉鎖、三菱は海運業を失うことになった。翌1886年(明治19年)、彌太郎のあとを継いだ弟岩崎彌之助が新たに三菱社を設立、石炭・金属鉱山・造船・銀行業を中心にして三菱の再興を図った。1893年(明治26年)、旧商法が一部修正のうえ施行され三菱合資会社に改組し、1899年(明治32年)には営業部を設置した。営業部は一度廃止されるが、1911年(明治44年)に復活、これが後に三菱商事へと発展していくことになる。1902年(明治35年)には、三菱合資として初めての海外拠点となる漢口出張所が開設された。これを皮切りに、上海、香港、北京、ロンドン、ニューヨークに次々と海外拠点が設置され、三菱商事誕生の条件が整えられていった。
三菱合資は、事業の発展とともに基幹部門の分離独立を開始、1917年(大正6年)に三菱造船(株)、三菱製鉄(株)を、続いて三菱鉱業、三菱銀行を独立させ、1918年(大正7年)に営業部の一切の事業を分離して、三菱商事(株)として独立させた。三菱商事は日本の生産品の輸出や、海外からの生産品・資源の輸入、最新の工業技術の日本への導入などを通じて発展していったが、第2次世界大戦後の1947年(昭和22年)、GHQの財閥解体によって解散、1954年(昭和29年)に再興を果たし、現在の三菱商事が発足した。
総合商社は、生産者と消費者を仲介するものとして誕生したが、鎖国が終わり明治が始まって日本が工業化の道へ向かい始めた頃から、日本と海外との仲介役として機能するようになる。三菱商事も創立以来こうした役割を果たしながら発展してきたが、戦後、日本の経済発展とともに、その機能は日本の大半の企業にとっても、ますます重要なものとなっていった。
仲介役の終焉
三菱商事が復興を果たしてから2年後の1956年(昭和31年)、経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。1960年(昭和35年)に発足した池田内閣は所得倍増計画を発表し、日本の高度経済成長が始まった。総合商社は、資源のない日本に資源をもたらし、日本の製品を海外の市場に運ぶというトレーダーとしての機能によって、いわば日本株式会社の購買部・販売部として日本の経済成長を促し、また同時に商社自身も発展していった。
三菱商事の連結収益を表すグラフは、この時期、日本の名目GDP、民間設備投資のグラフとほぼ重なって推移している。しかし、そうした二人三脚の歩みにも変化の時期が訪れる。下のグラフを見ていただきたい。70年代は、多少の上下幅がありながらもほぼ一致していた三菱商事の連結収益とGDPのグラフは、82年に、突然乖離し始めた。高度経済成長を通して世界市場で躍進を遂げた日本企業は、海外との仲介役としての総合商社機能を必要とする段階を脱しようとしていたのだ。それを表すかのように、86年には三菱商事の連結収益は急激に落ち込み、GDPの成長からは完全に取り残された。
しかし、85年にニューヨークのプラザホテルで開催された先進国5カ国蔵相会議でプラザ合意が発表され、ドル安容認を契機に急速に円高が進み、内需拡大策とともに日本はバブル経済に突入する。この時期、民間設備投資は急速に拡大し、日本の多くの企業が業績を伸ばしたように、三菱商事の連結収益も86年を底にいったん回復の兆しを見せた。
だが、その回復基調も、91年のバブル経済の崩壊とともに終焉を迎える。日本の長期不況が始まり、日本の経済成長と同一歩調で歩んできた商社の役割は完全に終焉を迎えていた。商社には再生をかけた新たなコンセプトが必要だった。
三菱商事も、基礎収益が激しく落ち込んだ86年以降、バブルの恩恵を享受し、ただ手をこまぬいていたわけではない。90年代の三菱商事はバブル崩壊後の不良債権処理に追われ、収益は低迷を続けていたものの、振り返ってみると、再生へ向けた改革はバブル期以前にすでに始まっていたといえる。そのスタートは、プラザ合意の翌年86年に、当時の近藤健男社長が経営革新のための具体的プランをまとめた「Kプラン」だった。会社そのものの存在意義を問いただすかのようなこの改革が、収益として成果を表すのはもう少し先のことになるのだが……。
トレーダーから事業投資型の商社へ
近藤社長が就任した86年当時は、業界での売上高1位の座を守るために、過去の海外投資からの配当で業績を支えるような収益構造が続いていた。三菱商事は、経済環境の変化への対応が完全に立ち遅れていた。近藤社長はこうした無意味な売上高競争をやめ、収益重視への転換を決断、経営革新を開始した。その具体的プランが諸橋社長に引き継がれたKプランである。「時代の変化に合わせた事業領域の選別」と「商社としての機能の高付加価値化」によって「商権構造の再構築」を図るもので、これに基づいて中長期に取り組むべき課題として、分社化・子会社展開の推進、事業投資活動の強化、内外拠点体制の充実などが次々に決定された。
Kプランで始まった胎動は、バブル経済進展により一時中断され、後を継いだ槙原稔社長時代のバブル処理―再生―アジア通貨危機を経て、98年から始まる中期経営計画MC2000、2000年からのMC2003に受け継がれ、三菱商事は再び変革への道程を辿り始める。佐々木幹夫現社長が就任したその年に打ち出されたMC2000は「選別経営と戦略分野の強化」や「リスクマネジメントの強化」などを中心に、経営の構造改革のための総点検を行ったもので、ここで改革に必要なさまざまなポイントがあぶりだされ、より具体的な経営計画の足がかりとなる重要な課題も浮かび上がってきた。
MC2000の改革のなかで注目すべきキーワードは、「事業投資活動」「戦略分野」「リスクマネジメント」である。かつて高度成長の時代には、日本の企業活動に、海外との仲介役として商社の役割は不可欠だった。成長過程の日本には不足している機能がそれだけ多かったからこそ、総合商社の役割がそこにあった。必要とされる役割を、総合商社は仕事として果たしていた。しかし十分な経済発展のなかで成長を遂げた企業に、しだいに不足部分は減っていった。企業は自前で世界と交流する力を備え、仲介役としてだけの総合商社の機能を必要としなくなったのだ。当時、Kプランが目標として「商社としての機能の高付加価値化」を掲げているのはそのためである。三菱商事が果たす役割は「不可欠な価値」ではなく「高付加価値」となった。必要とされる役割を提供するのではなく、商社自らがニーズを発見し、高付加価値として提供していく。その具体的活動が、「事業投資活動」だ。事業に投資する以上はリスクをコントロールするための「リスクマネジメント」が重要になる。そして、投資したプロジェクトのなかで有望なものを「戦略分野」として強化していく。
実は、こうした新しい活動の萌芽は、冒頭に紹介した69年のブルネイLNG開発プロジェクトのなかにすでに見ることができる。化石燃料のなかでCO 2 排出量が最も少ないとされる天然ガスを液化することによって、資源を持たない資源消費大国日本に、運搬可能にするブルネイプロジェクトは、ニーズの発見、事業投資、戦略分野としての強化という潮流を作り上げた最も早い段階での実例である。ブルネイプロジェクトがあったからこそ、三菱商事はいち早く変革への動きを開始することができたと考えられる。エネルギー分野は、現在の三菱商事のなかで重要な戦略分野のひとつとして位置付けられている。
新しい価値の創造
MC2000で経営の総点検を行った三菱商事は、続く中期経営計画MC2003で、いよいよその成果を具体化する段階に入った。MC2003の重要なキーワードは「新たな価値創造への挑戦」である。つまり、市場にニーズを探るのではなく、三菱商事自らが新しい価値を創造し、市場にニーズを生み出していく、そのような活動サイクルを作り出すための経営を構築するということである。
社外へのコミュニケーションを目的として発信された言葉ではないため抽象的な目標と思われるかもしれないが、これは定量化可能で明確な方法論を持った、具体的なミッションであった。さて、その成果はどうだったか。
過去最高の基礎収益
2002年度、三菱商事は、総合商社独特の財務指標である基礎収益で、1,771億円という過去最高の高収益を達成した。98年度をボトムとして、基礎収益は好転し、わずか4年で最高の水準に達したのである。2003年度は、MC2003の最終年度にも当たる。経営構造はすっかり変わった。三菱商事は、その成功をさらなるバネに、次のステージへとその歩みを進めたといえるだろう。
総合商社の役割は時代とともに変化する。旧来の総合商社機能が必要でなくなった今、総合商社という枠でくくれるビジネススタイルはすでに存在しない。常に時代に即したビジネススタイルを構築し、新しい価値を提供しつづけることが、その根本にある使命である。三菱商事の果敢な挑戦とその成果は、総合商社という範疇を超えて、日本の企業全体に明るい未来を提示したように思える。それもまた、総合商社のひとつの使命かもしれない。
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