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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2003年秋号 Vol.63
 

わずかな資金でスタートした技術の協同体
株式会社岡村製作所

創業者
吉原謙二郎


オカムラは2003年、
北米・北欧をはじめとする家具先進国へ輸出を開始した。
国産オフィス家具としてはかつてない規模の快挙である。
戦後の混乱のなかで、
わずか5万円の資本金を持ち寄ってスタートした工場は、
いかにして世界のトップクラスを狙うに至ったか。
先駆者としての道のりをたどってみた。

イタリアのジウジアーロがデザインした、エルゴノミック・メッシュチェア「コンテッサ」。
2003年に北米・北欧への輸出を実現したオカムラの世界戦略製品第1号である

戦後初の国産飛行機

  1953年4月7日、浜松飛行場の滑走路を一機の小型飛行機が滑り出していった。しだいにスピードを上げ、わずか65馬力の小さなエンジンは悲鳴をあげるが、一向に浮き上がろうとしない。滑走路がしだいに短くなっていく。関係者の間に緊張が走り始めたその瞬間、機体はふわりと浮き上がった。戦後初の国産飛行機が離陸した瞬間であった。この飛行機を製作したのは飛行機メーカーではない。戦後、国産機の製造が解禁となってから最初に飛行機を完成させたのは、現在オフィス家具のトップメーカーとして知られる、株式会社岡村製作所(以下、オカムラ)である。この事実が、オカムラという企業の生命力を解き明かす大きな鍵であった。

焼け野原で生まれた会社

  オカムラの創業者、吉原謙二郎は、1913年(大正2年)、横浜に生まれた。旧制横浜高工(現在の横浜国立大学工学部)の造船工学科航空専修生コースを卒業後、いくつかの航空機会社を経て、海軍の山本五十六(後の連合艦隊司令長官)が設立に尽力した航空機会社、日本飛行機株式会社に入社した。ここで工作課長としてさまざまな飛行機の製作に携わり、33歳の時、終戦を迎えた。
  戦後はGHQ(連合国総司令部)によって飛行機の製造が禁止され、日本飛行機でも仕事はまったくなかった。当時はほとんどの会社が機能を停止し、そこに戦地から引き揚げてくる人々も加わって失業者は増加するばかりだった。吉原は残った社員たちと一緒に、横浜市磯子区岡村町にあった疎開工場で日用生活品を作ろうと考え、会社に民需生産の許可を申し出た。そして、まず、当時最も逼迫していたアルミニウム鍋の生産準備にとりかかったのだが、結局、日本飛行機は民需生産を断念してしまった。そこで吉原は社員たちに働きかけ、みんなで資金を持ち寄って、自力で経営を始めることを決意した。お互いに助け合って事業を起こす以外、道はなかった。それぞれ貯金や退職金、あるいは家財や衣類を売り払って作った資金を持ち寄り、5万円が集まった。これを資本金として、1945年10月10日、会社が設立された。社名は創業の地の名をとって岡村製作所と命名された。
  売り物になる技術や製品があるわけではなかった。ただ、それぞれが資金、技術、労働力を提供しあい協力しあう「協同の工業」があるだけだった。企業は協同体であるという思想。吉原はこの考え方を、技術者になりたての頃に読んだ一冊の本から学んだ。それは世界的なレンズメーカーの創立者カール・ツァイスの自伝で、ツァイスの後継者となった大学教授アッベの言葉として、こんなことが書かれていた。「事業がこれほどまでに発展したのは、ツァイスの努力と同時に、従業員と大学の協力、そしてイエナの町の人々の協力があったからだ。企業は社会と人々との協同体である」。オカムラの発足は、まさにこの考え方を具現化したものだった。社名に町の名を冠したことも、そのあらわれだったにちがいない。

米軍用オフィス家具の製作

  「協同の工業」という人的資産以外に、オカムラにはもうひとつだけ資産があった。日本飛行機が航空機用に所有していた600トンものジュラルミンの板である。これを材料に、オカムラは日用生活品の生産を始めた。最初に作ったのは、鍋、フライパン、ご飯蒸し器、天火、筆入れ、弁当箱、灰ならし、おたま、ケーキターナー。市場での反応は良かった。一面焼け野原となった横浜では、ジュラルミンの板をプレスして取手をつけただけのものでも飛ぶように売れたのである。なかでもオカムラのフライパンはベストセラー商品だった。しかし戦後2〜3年経つと本職の手による機能的な商品が出始め、オカムラの鍋の需要は下降していった。新たな事業への模索が、こうして始まった。
  その頃、横浜に駐留していた米軍第8軍司令部のなかに日本での物品調達のための兵站部が設置され、米軍が必要とする物品のリストがそのつど提示された。ここに新しい事業の芽があると見たオカムラは各種の入札に次々に参加し、スチール製の机と椅子、厨房器具、ブラインド、小型四輪駆動車のトップカバー、車のナンバープレート、ラジエーターカバー、犬の鑑札などを生産した。なかでも飛行機の機体に使用する薄板の加工技術を応用したスチール家具は好評で、その後も受注が続き、しだいに生産も波に乗るようになっていった。これがオカムラのオフィス家具製作の始まりである。
  オフィス家具の生産は軌道に乗ってきたが、日本飛行機出身の技術者が多かったオカムラでは、何とか「動く製品」を開発したいと考えていた。ある日、米軍の将校がアメリカのクッシュマン製スクーターに乗って工場へやってきた。そのスクーターには、動力伝達部分に流体継手が装着されていたのだが、これに注目したのが、流体力学に精通していたオカムラの技術顧問、山名正夫であった。山名は1949年に新たに機械部を設立して、トルクコンバータ(流体変速機)の本格的な研究にとりかかった。こうして翌1950年、オカムラは国内初のトルクコンバータの開発に成功し、生産を開始した。最初にこの製品を搭載したのは国鉄のディーゼル機関車で、その後、フォークリフトやパワーショベルなどさまざまな分野で活用されるようになり、オカムラは現在に至るまで、高性能のトルクコンバータを製造している。「動く製品を開発したい」という技術者たちの夢はこうして叶えられたのだが、その2年後、さらに大きな夢が現実のものとなったのである。

「動く製品」への情熱

  1952年の日米講和条約によって国産航空機の製造が解禁となり、戦前の航空機メーカーは一斉に生産の再開に乗り出した。この頃、朝日新聞社は同社が主宰する日本学生航空連盟に寄贈するために飛行機を製作することとなったが、同社がその製作を依頼したのは、なんとオカムラであった。吉原たちが所属していた旧日本飛行機は大手に比べるとはるかに小さなメーカーだったが、オカムラには山名正夫をはじめ、日本有数の航空機技術者たちがずらりと顔を揃えていたのである。
  開発はオカムラと日本大学が共同で行うことになり、日本大学の“N”と開発開始年度の“52”を組み合わせて、飛行機は「N-52」と名付けられた。設計は山名正夫と日本大学の木村秀政教授が中心となって進められた。設備も材料も不十分なものであったが、技術者たちは創意と工夫を凝らして苦境を乗り越えていった。エンジンはパン・アメリカン航空極東支配人のダグラス・B・シャーマン氏が木村教授にプレゼントしたアメリカ製の4気筒65馬力エンジン。馬力が低いため思い通りの結果がなかなか得られず、機体にはさまざまな設計変更が施された。軽量化のために操縦席の屋根を取り払うなどの改良を重ねてN-52はようやく完成し、1953年4月7日、浜松飛行場の空に飛び立っていったのである。当初200万円と見込んでいた製造原価は400万円まで膨らんでいた。結局、オカムラはコスト面の問題から飛行機の製造を続けていくのは困難と判断し、これ以後、航空機産業に足を踏み入れることはなかった。
「動く製品」への情熱は、しかしこれで終わりではなかった。飛行機の開発が始まった1952年、オカムラは自社のトルクコンバータを搭載した国民車を作ろうと、自動車の開発もスタートさせたのである。まず、サンプルとしてフランスの大衆車シトロエン2CVを購入し、徹底的に研究した。その結果、トルクコンバータと2段変速機を組み合わせた自動変速機搭載という、国産初のFF・オートマチックの乗用車が誕生した。ボディの製造には航空機の薄板加工技術が、シートや内装には家具製作の技術が活かされ、製作はすべて社内で行われた。「ミカサ」と名付けられた車は1957年5月の第4回全日本モーターショーでデビューし、順調にスタートを切った。1959年にはスポーツモデルも発売され、「ミカサ」は順風満帆であった。しかしそれまでに投入した資金はすでに膨大なものとなっており、しかも自動車産業はまだまだ未知数であった。家具メーカーとして専念すべきという声もあがり始め、1960年春、ついに「ミカサ」の生産は中止された。3年間で送り出された「ミカサ」は約250台であった。自動車産業から撤退したオカムラの「動く製品」への情熱は、その後、トルクコンバータや、自動倉庫などの物流システム機器に受け継がれていったのである。

家具先進国へ輸出開始

  日本では事務用家具は木製が主流だったが、1952年にJIS(旧)規格(日本工業規格)が制定され、メラミン化粧板が発売されたことで、日本のオフィスでもスチール家具の時代が始まった。戦後すぐに米軍のスチール家具の製造を開始したオカムラは日本のオフィス家具をリードしつづけ、現在、トップメーカーの地位は盤石のものとなっている。
  2003年1月に発売された「コンテッサ」は、エルゴノミック・メッシュチェアと銘打たれた最新の椅子で、人間工学研究の成果を結実させたオカムラ技術の集大成ともいうべき製品である。アルミフレームの美しいデザインは、フィアット・パンダやフォルクスワーゲン・ゴルフなどの車で知られる世界的なインダストリアル・デザイナー、イタリアのジョルジェット・ジウジアーロの手による。オカムラはこの「コンテッサ」によって、日本のオフィス家具では初めて、北米と北欧への本格的な輸出を開始した。特に家具の本場北欧への輸出を実現させたことは、オカムラの技術力の高さを物語るものである。現在のオカムラは、オフィス環境を中心に、スーパーなどの店舗用什器、自動倉庫などの物流システム機器、各分野のセキュリティ・マネジメント、公共施設用什器、建材、そしてトルクコンバータなど、多角的に事業を展開している。
  航空機の技術者が集まってスタートを切ったメーカーだけに、高い技術力は伝統的に持ち合わせているのだが、オカムラのモノづくりの原点となっているのはそれだけではない。航空機メーカーの血筋を引く技術力をより高め、磨いてきたもの──それは、企業は協同体であるという「協同の工業」の発想である。集まった技術者たちが力を合わせ、まず市場で求められていた鍋やフライパンを作り、それから米軍の要請に応じてスチール家具を製作する。これが軌道に乗ると、そこで生み出された資金で今度は飛行機や車の生産に乗り出す。スチール家具を軌道に乗せたのは飛行機の機体を作る薄板加工技術であり、飛行機を飛ばしたのはスチール家具が生み出した資金だった。それぞれの事業が次の事業を生み出し、各分野の技術が影響しあってオカムラの生産技術を高めていく。これが「協同の工業」オカムラの生命力である。

世界を舞台にした「協同の工業」へ

  オカムラのオフィス家具製作の技術は、米軍のスチール家具を見本にしてスタートし、現在ではそれを北米・北欧に輸出するレベルにまで高めている。トルクコンバータもアメリカ製のスクーターを参考にして開発したものであり、ショーケースなどの什器は、アメリカからスーパーマーケットの概念が輸入された時、その発展を予測して開発に乗り出したものである。輸入された文化や技術を研究し、より高めて独自の技術として送り出してきたのが、オカムラである。オカムラはこれまでも技術提携などを通して海外とのつながりが深かったが、2003年はいよいよ、家具先進国である北米、北欧各国への輸出を開始した。輸入された文化から始まった技術が熟成し、満を持して世界のトップクラスへと歩みを始めたわけである。「協同の工業」の発想が世界を舞台にどんな展開を見せるか。注目すべきはその点である。





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