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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2003年春号 Vol.61
 

石油元売から総合エネルギー企業へ
新日本石油株式会社

日本石油初代社長
内藤久寛


日本の石油産業の発展と歩みを共にしてきた日本石油と、
精製技術発展のために外資との提携によって生まれた三菱石油。

資源の乏しい日本にエネルギーを供給するために、 両社はどのように歩み、合併に至ったか。
「総合エネルギー企業」として動き始めた 新日本石油の歴史を振り返ってみたい。

2001年7月に誕生した新ブランドENEOS。
「ENERGY/エネルギー」と「NEOS/ネオス(ギリシャ語で新しい)」
という2つの言葉の組み合せより生まれた

石油産業の勃興と日本石油の創業

  1853年(嘉永6年)7月、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が来航し、日本の鎖国は解かれた。徳川幕府の崩壊は進み、やがて日本は新たな時代を迎えるが、この時、新時代の日本を明るく照らし出すかのように、文明開化のひとつの象徴となったのが石油ランプである。日本の開港とほぼ同時に伝来した石油ランプは、それまでの行灯に比べて10倍以上も明るく値段も安かったため、瞬く間に普及していった。それは工場の作業現場にも取り入れられて夜間作業を可能にし、工業生産の発展に重要な役割を果たした。こうして1877年(明治10年)以降、灯油の輸入が急増したのである。
  さて、最初の石油ランプのひとつは新潟の長岡に持ち込まれたといわれている。新潟は1868年(明治元年)に開港されて以来、物資豊かな一大商業地として栄え、1872年(明治5年)には、いち早く石油ランプの街灯が275基も設けられた。また古くから産油地として知られ、石油ランプの普及とともに起こった石油開発ブームの中心となっていた。なかでも日本海に面して新潟県のほぼ中央に位置する尼瀬は潤沢な産油地で、海面に石油が滲むほどだったという。今回の最初の登場人物、内藤久寛は、1859年(安政6年)、この尼瀬に隣接する刈羽郡石地で生まれた。19歳のとき戸長(町村制施行以前の村長のようなもの)となり、26歳で県会議員に当選。その後、豊野浜漁業組合や新潟県水産組合連合会をつくるなど地場産業の振興に力を尽くしていた。その頃、出身を同じくする山口権三郎はすでに県政界の重鎮として産業振興に情熱を燃やしていた。1885年(明治18年)頃には、山口を中心に県会議員の有志や有力者50人あまりが集まり、殖産協会が結成され、産業振興や資源開発について活発に意見交換が行われていた。そのなかにあって、内藤はやがて「殖産興業の志」を抱くようになっていた。特に尼瀬の活況を見て石油業の未来に可能性を感じ、その企業化を着想する。そうした内藤の石油事業進出の提案に当初は慎重だった山口だが、たまたまアメリカ駐在の農商務省参事官鬼頭悌二郎からアメリカの石油事情について話を聞く機会があり、その心もしだいに石油事業に傾いていった。アメリカの石油産業は当時すでに世界市場を制して、大きな富をアメリカにもたらしていたのである。こうして石油会社設立の気運は高まり、1888年(明治21年)2月、殖産協会の懇親会で山口が会社設立の構想を述べ、有力会員の賛同を得てその設立が決定。社名は日本石油と命名された。ちなみに創立前のある晩餐会で会場に一匹の蝙蝠が舞い込み、蝠は福と同音だから福が舞い込んだとして、以後、「日本」の文字を蝙蝠の形にデザインしたマークが社章として使われるようになったという。同年5月10日、創立総会が開催され、内藤が常務理事(実質の社長)となって有限責任日本石油会社が設立された。その後、商法の一部が施行され、1894年(明治27年)、社名は日本石油株式会社に改称されることとなる。

インターナショナル石油の買収と宝田石油との合併

  その頃、アメリカではすでにロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストが世界の石油市場を独占していた。明治維新前後、日本に輸入された灯油も、ほとんどがスタンダードの灯油だった。1900年(明治33年)、日本で外国人による日本籍の鉱業会社が認められるようになると、スタンダードは資本金1,000万円のインターナショナル・オイル・カンパニーを横浜に設立した。当時日本石油の資本金が120万円だったことを考えると、この企業の巨大さがわかる。インターナショナルは大規模に事業展開を行っていたが、やがて原油生産が不振となり外部購入も思うにまかせず、1907年(明治40年)5月9日、突然、日本石油に資産の売却を申し入れてきた。日本石油はこれを受け、わずか175万円で同社の新潟県下の全財産を買収し、1911年(明治44年)には同社の日本での事業はすべて日本石油の所有となった。
  1914年(大正3年)に第1次世界大戦が勃発、航空機や戦車が登場し、石油は「灯火の時代」から「動力エネルギーの時代」へ転換していった。この年、日本石油は本社を新潟から東京市有楽町の三菱21号館へ移転した。戦後、石油の重要性に対する認識はますます高まり、国内原油増産の体制整備が必須となってきた。1921年(大正10年)4月、日本石油とこれに次いで国内2位の宝田石油が合併に合意し、同年10月には、内藤を社長、宝田石油の橋本圭三郎社長を副社長とする合併が完了、翌年には原油生産量が全国の87%を占める規模となった。

初の外資提携で三菱石油創業

  同じ頃、三菱合資会社社長の岩崎小彌太も、石油に関心を持っていた。1923年(大正12年)に三菱商事会社内に臨時液体燃料調査委員会を設けて石油取引の準備を開始し、同年12月、原油と重油の一手販売契約をサンフランシスコのアソシエーテッド石油会社と締結した。順調なスタートとなったが、すぐにわかったことは、いずれ国内に製油所を建設して石油精製業まで手を広げなければ事業としての展望が開けない、ということだった。輸入税の関係上、原油を輸入して国内で精製するほうが製品輸入よりも有利なうえ、政府の方針も製品輸入の抑制に向かうことは明らかだった。しかし石油資源に乏しい日本では石油精製技術もまだまだ稚拙だった。そのため、原油の輸入確保に加え、石油精製設備と技術の導入のためにもアメリカの石油会社との資本提携が必要だと考えられた。こうして1929年、サンフランシスコで三菱合資、三菱鉱業、三菱商事の3社とアソシエーテッド社の共同経営契約が調印され、1931年2月14日、三菱石油株式会社が誕生した。岩崎小彌太は海外との共同経営事業に関心を持ち続けていて、三菱電機などでいくつかの提携は実現していたが、本格的な共同経営は三菱石油が最初であり、日本の石油業でもこれが外資提携の先駆となった。なお、1949年に実現した日本石油とアメリカの石油会社カルテックスとの提携も、カルテックスの豊富な原油供給力を入手できる対等な提携となったため、最も優れた外資提携の例として知られている。
  三菱石油の設立を前に、岩崎社長は日本石油に水田政吉(1944年2月〜1945年7月同社社長)を訪ね、三菱石油の計画を話して了解を求めた。水田は若い頃、岩崎家の学寮で岩崎小彌太と起居を共にした、いわば岩崎の先輩であった。「お互いに公正な競争は事業発展のためにも必要であり、そのためには新会社の資本金ぐらいは損をしても構わないつもりだ」という岩崎の言葉と、「三菱は決して自分勝手な真似はせぬ、他所とも手を握って仲良くやっていく」という三菱側の申し出に業界も納得し、互いに事業の発展を誓い合った。

高度成長期とエネルギー革命

  1956年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言し、日本の経済成長は目覚ましい発展を遂げた。事実、1955年から1961年の間に国民総生産は70%増え、29兆円に達した。なかでも重化学工業部門の伸びが著しく、エネルギー需要は急増した。また、石油化学コンビナートが誕生し、石炭から石油へのエネルギー革命が進みつつあった。
  従来、日本政府がとってきたエネルギー政策は、石炭と電力を中心に国内資源の開発利用を主流としたもので、輸入依存度の高い石油は補完的エネルギーと考えられていた。しかし、1958年の不況は、特に石炭業界に深刻な影響を及ぼし、エネルギー需給の構造的変化はしだいに周知のものとなっていった。1960年に池田内閣が発表した国民所得倍増計画では、経済性を考えたエネルギーの選択と消費者による自由選択が強調され、石油を中心としたエネルギー政策への転換が明瞭になった。1961年の1次エネルギー供給構成比の実績は、石炭と石油が共に39.9%と肩を並べ、石油時代の到来を印象づけた。

2度のオイルショック

  73年10月に勃発した第4次中東戦争を契機に、ペルシャ湾岸産油6カ国は原油公示価格の70%値上げを一方的に宣言、翌年1月にも値上げされ、原油価格が4倍近くに急騰する第1次石油危機が起こった。原油の供給削減と大幅値上げにより、日本では73年11月から74年2月までのわずか4カ月間で卸売物価が21%強、消費者物価が13%弱も上昇、狂乱物価が現出した。75年には落ち着きを取り戻したが、石油各社が受けた打撃は大きかった。「便乗値上げ」のレッテルを貼られ、原油の高騰分を製品価格に転嫁させることが許されず、多大な損失を受けたのである。
  5年後の78年末、イランは石油労働者のストライキを契機に原油輸出を停止し、メジャーは日本の石油会社へ原油供給の削減を通告。第2次石油危機が発生した。日本はイラン原油への依存度が13%程度と低く、石油備蓄も91日分確保していたため供給に不安はなかったが、エネルギーの石油に対する依存度の高さと省エネルギーの必要性が浮き彫りになった。翌79年6月に日本で初めて開催されたサミットでは、石油消費の抑制と他エネルギーの開発を決議し、国別の石油輸入目標を決めた。政府はこれを受け入れて同年「省エネルギー法」を施行し、省エネルギーと石油代替エネルギーの開発が急務となった。これまで石油業界は原油処理能力の増設を目指してきたが、ここへきて一転、過剰な能力の縮減が課題となった。産業構造が根本的に変わろうとしていた。

合併、そして総合エネルギー企業へ

  81年上半期に、石油業界は全体で約4,600億円の経常損失を生じた。石油審議会は、過剰設備の処理、元売の集約化、リーディング・カンパニーの形成などについて具体的方針の必要性を指摘した。元売各社はこれを受けて販売網まで含めた集約へと一斉に向かい、7グループ11元売体制に集約されていった。
  日本石油は三菱石油を提携先として想定していた。長い伝統を持っていること、販売形態が似ていたこと、つまり、企業体質・企業資産を共有しやすい企業であることがその理由だった。三菱石油も同様の理由で日本石油を提携先に想定していた。84年に両社は基本協定書に調印し、5年後には両社合わせて年間110億円の合理化を実現しようとする業務提携が実施された。
  日本石油と三菱石油の提携関係は順調に成果をあげていたが、バブル崩壊後、94年の第2次規制緩和は、石油業界に再び厳しい課題を突きつけるものとなった。石油製品輸入・輸出の自由化、給油所への参入規制の緩和、監視員常駐の有人セルフ式給油所の解禁など、効率的経営をめぐる新たな競争原理に、石油業界全体がさらされることとなった。
  21世紀を見据え、コスト競争力に優れた収益力のある企業を目指すために、日本石油と三菱石油の思惑は再び合致した。1社の企業努力を超えた強力な企業体質の実現、すなわち合併である。99年4月、両社の合併は実現し、社名を日石三菱株式会社と改めてスタートを切った。さらに2002年6月27日、新日本石油株式会社に改称し、新たな歩みを開始している。
  現在、新日本石油は石油業界のリーディング・カンパニーとして石油事業をコアビジネスと位置付け、上流(石油開発部門)から下流(精製・販売)までの一貫操業体制の構築に全力を傾けている。さらに、IPP(卸電力供給)事業やコージェネレーションなどの電気・ガス事業、次世代のエネルギーとして期待される燃料電池の開発など、エネルギー事業の多様化を進めている。元売というポジションから、さまざまなエネルギーを取り揃えて環境や時代の要請に応える「総合エネルギー企業」というコンセプトへの変換である。エネルギーや環境の問題は、人間にとって最も基本的で重要な問題である。日本有数のエネルギー企業がこの問題にどんな答えを提示するか、私たちの期待は大きい。





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