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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2003年3〜4月号 Vol.60 |
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創業者
光永星郎 |
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20世紀の始まりの年に、
小さな借家で産声を上げた会社が、
日本の広告業を牽引するリーディング・カンパニーとなり、
21世紀を待たずに、世界一の広告会社へと発展した。
そして21世紀、新たな100年へ向けて飛躍を開始した電通。
時代とともに変わり、また時代を変えてきた、その歩みをたどってみたい。
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右側の一番手前のビルが、創立100周年の翌年、 2002年12月1日にオープンした新電通本社ビル。
再開発都市「汐留シオサイト」の超高層ビル群の先頭を切って建設された |
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2階建ての小さな借家から
有楽町の駅から晴海通りを和光のほうへ向かうと、左側に「銀座松崎」という老舗の煎餅屋がある。この一帯がまだ東京市京橋区弥左衛門町と呼ばれていた時代、この店の数軒北側に、間口二間、奥行き三間の小さな二階家があった。20世紀開幕の年である1901年(明治34年)7月1日、この二階家の1階で、社員7〜8名の小さな会社が産声を上げた。6畳と2畳のわずかふた間からスタートしたこの会社が、21世紀の開幕を待たずに世界一の広告会社になろうとは、まだ誰も知る由もなかった。
通信業と広告代理業の併営
電通の創業者・光永星郎は、明治の中頃に民権運動の渦中に身を投じた政治青年で、20代の時新聞記者となり、日清戦争では特派員として従軍した。そうした体験から、やがて光永は正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を思い立った。しかし、通信業単独では採算がとれそうもない。光永はまず通信業のための経営基盤を確立しようと、1901年(明治34年)7月1日、新聞社に広告を取り次ぐ日本広告株式会社を創立。冒頭に記したように、2階建ての小さな借家からのスタートだった。
生まれたばかりの日本広告が大手業者に立ち向かうためには、特別な戦略・戦術が必要であった。当時の広告取引は、新聞社の公表料金とは別の、第三者にはわからない割引料金による取引が常態化しており、非合理不透明との批判を受けていた。そこで光永は3項目の基本戦略を掲げた。第1が「利率の低廉」、つまり手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明」化、例えば臨時広告に対する業者の入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全」化で、意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供によって広告主への支援サービスを充実させること。それまでの広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。
日本広告創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で電報通信社を設立し、念願であった通信業をスタートさせた。当時の通信社は、ほとんどが政党や政治家の機関的通信社であったが、光永が目指したのは、不偏不党で正確迅速なサービスを行う通信社であった。こうした特色は信頼を高め、電報通信社の業績は急成長を遂げる。電報通信社を創業して5年目、光永は事業の将来に確かな自信を感じ、通信業と広告代理業の一体経営化を決意。1906年(明治39年)12月27日、株式会社日本電報通信社(以下、電通と略記)を設立し、電報通信社をこれに吸収、次いで日本広告株式会社を合併して、本格的な電通の併営体制がスタートした。
広告代理業専業へ
1914年(大正3年)7月28日、第1次世界大戦が勃発した。この大戦報道で電通は顕著な成果をあげ、通信社電通の声価を一挙に高めた。また日本は未曾有の好景気となり、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大して、電通の営業成績は急上昇をたどっていった。
しかし、順風満帆であった電通に一大転機が訪れる。1931年に満州事変が起こると、政府は日本の情報通信機関を一元化して国家的通信社を作る必要があるとして、当時電通とライバル関係にあった通信社、日本新聞聯合社と電通の統合方針を決定した。光永は強く難色を示したが、1935年5月、統合推進派は創立準備委員会を開いて新社名を同盟通信社と決め、11月、逓信大臣は設立を許可した。光永にもはや選択の余地はなかった。1936年6月1日、電通通信部門は同盟通信社に合流し、この日から、電通は広告代理業専業となって新発足した。
広告業の社会的地位向上を目指して
1945年8月15日、電通本社ビル(現・電通銀座ビル)2階の大広間で、戦争終結を告げる昭和天皇の玉音放送を聞き終えると、「これからだ」と叫んだ男がいた。常務取締役の吉田秀雄である。吉田はその2年後の1947年、第4代社長に就任。その新任の挨拶のなかにこんな一節がある。「先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ります」(「電通報」1947年6月25日)。この言葉に吉田の基本理念が明確に示されている。事実、この後、吉田は電通を世界の電通へ成長させる一方で、広告業全体の社会的地位の向上に全力を尽くし、電通、そして広告業界の隆盛の礎をも築いていくことになる。
吉田はまずスペースブローカー的広告代理業から近代的広告会社への体質改善を図るために市場の科学的な調査を強化し、続いてアメリカで発展したPRを本格的に導入。そして、1950年代、電通に大きな飛躍をもたらすことになった民放開局を実現させる。民放導入の動きは、1945年9月、東久邇内閣の「民衆的放送機関」設立に関する閣議了解に始まった。その受け皿として構想された民衆放送株式会社の設立の際に吉田は中心的役割を果たしたが、この時は占領軍の方針で時期尚早とされ、民放の実現は先送りされる。しかし、民放が電通と日本の広告界の未来を担うと確信した吉田は、その後も実現に情熱を注いだ。いよいよスタートが本決まりとなり各地で民放ラジオ局開局の動きが始まると、免許申請の手続きから番組編成、CMの作り方、営業のノウハウまで、電通は支援を惜しまなかった。こうして1951年に名古屋と大阪でラジオ局が開局し、民放時代の幕が開かれた。そして2年後の1953年、日本テレビの開局によって、時代は一挙にテレビの時代へと突入した。テレビは1955年以降の高度成長期に爆発的に普及するが、それは同時に電通の飛躍の決定的な契機となった。
マーケティング・エージェンシーへの脱皮
1955年7月1日、電通は創立55周年記念日に、社名を株式会社日本電報通信社から株式会社電通に改めた。この年から日本は高度成長期に突入し、広告は量的な発展に加え質的にも大きく変化した。1950年代初頭にアメリカで生まれたマーケティング理論の一環として、広告が位置付けられるようになったのである。吉田は1956年にアメリカの広告界を視察して強い影響を受け、マーケティング・エージェンシーへの脱皮を目指して電通にAE制を導入した。AE制とは、広告代理業が、広告主との契約で、広告主企業のひとつあるいは複数の商品の広告宣伝に関わる全計画の立案と実施のすべてを代行する方式のことである。吉田は続いて調査部門とクリエーティブ部門を再編強化し、マーケティング・エージェンシーへの変革をさらに加速させていった。
こうして吉田秀雄の時代に電通は大きく発展し、1955年から1964年の間に取扱高は149億円から877億円へと5.87倍、利益は34.1倍にも伸びた。さらに73年の世界の広告会社年間取扱高で1位を獲得し、88年には広告会社としては世界初の売上高1兆円を突破した。
新世紀コミュニケーション・ビジネスの担い手として
2001年、電通は創立100周年の年に株式上場を果たし、プライベート・カンパニーから社会へ開かれたパブリック・カンパニーに生まれ変わった。真に社会から評価される企業を目指すと同時に、グローバルな市場で広告主の信頼を獲得するためにも、上場の意義は大きい。広告界はグローバル化し、メガ・エージェンシーの激しい競争時代に突入している。アメリカの広告会社レオ・グループとマクマナス・グループが提携し、電通が資本参加して設立したビーコムスリー・グループは、2002年9月、フランスの広告会社ピュブリシスと合併してピュブリシス・グループを設立。電通はピュブリシス・グループと資本提携して、日米欧を基盤としたグローバル・ネットワークを築き上げた。
一方、国内および世界のブランド構築サポート体制をより強化するために、電通は2002年2月1日付でブランド・クリエーション・センターを新設するとともに、アメリカのブランド・コンサルティング会社プロフェット社へ出資。内外企業のブランド構築需要に応えている。
そして2002年12月1日、再開発都市「汐留シオサイト」内に新社屋をグランドオープンした。21世紀、グローバルなコミュニケーション・ビジネスを展開するエージェンシーとして、新たなスタートを切った電通。新世紀コミュニケーション・ビジネスの担い手として、次にどんな時代を築き上げてくれるのか、ますます目が離せない。
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