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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2002年9〜10月号 Vol.57 |
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一枚の紙からデジタルへ 先見性が企業を進化させる
株式会社リコー |
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リコーの創業者 市村清 社長 |
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青色陽画感光紙の商品化、カメラの大量生産化、
オフィス・オートメーション概念の構築、
デジタル技術の実用化……。
すべて、時代に先駆けて行われたことだった。
先駆者であり続けた企業は、どのように進化し、
どこへ向かおうとしているのか。
企業活動そのものの進化が、そこに見えてくる。
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「理研陽画感光紙」。世界5カ国で特許を取得したこの発明が、リコーの起源。
写真は陽画(白地に青線)と陰画(青地に白線)の例 |
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紙の技術から、神の技術へ
聖書によると、神の姿を複製したものが人間だという。天地創造から長い時を経て、今や人間の生み出した複製技術は、遺伝子工学の分野では神の領域に踏み込もうとしている。一方、わずか70年ほど前に複製をするための紙の技術から始まり、今や神の技術に踏み込もうとしているのがリコーだ。『神の技』、すなわち、創り出されたばかりの美しい地球環境を、現在に複製しようと試みている。これまでのリコーの歴史をたどってみれば、それも必然の結果であることがわかる。リコー66年の歴史に通底するもの、それは先見性である。
全国の売り上げの半分以上をひとりで売る男
日本の科学技術史を語るうえで欠かせない研究機関がある。1917年(大正6年)に財団法人として創設された理化学研究所である。純粋理化学の研究を目的とした機関だが、第3代所長の大河内正敏博士の時代に、研究成果を事業化するために理化学興業(株)が設立され、多くの理研製品が発売された。そのなかのひとつに、1927年に発明された「紫紺色陽画感光紙」がある。それ以前から使われていた青写真は、青地に白線の仕上がりという陰画であったが、この感光紙は白地に青い線が浮かび上がる陽画である。赤い線の陽画はあったが、青系統のほうが見やすいため各国の学者が研究しており、紫紺色陽画感光紙が初めてそれを可能にしたのだった。世界5カ国で特許をとったこの発明は、1929年に商品化され、「理研陽画感光紙」の名前で理化学興業から発売された。売れ行きは好調だったが、やがて、たったひとりで全国の売り上げの半分以上を販売する男が現れた。九州の総代理店・吉村商会の店主、市村清である。大河内所長はこの活躍を認め、市村を感光紙部門の部長に招聘した。市村はその期待に応えて感光紙事業を発展させ、1936年に理化学興業から独立、理研感光紙株式会社を設立した。これがリコーの始まりである。
空前のヒット、「リコーフレックスIII」
創業の翌年である1937年、理研感光紙株式会社は事業の多角化を図るため、オリンピックカメラ製作所(株)と旭物産(資)を買収して旭光学工業(株)(現在の同名の会社とは無関係)を設立し、カメラ事業に進出、翌1938年、理研感光紙株式会社は理研光学工業株式会社と改称した。戦争でカメラ事業は中断したが、1950年に「リコーフレックスIII」を発売すると、空前の大ヒットとなった。市村は「ローライの10分の1の価格で売れる機種を作れれば、月産5,000台は間違いない」と断言し、カメラ業界では例がなかったベルトコンベアによる量産方式を取り入れた。当時カメラメーカーの生産力が月産数百台から1,000台だったのに対し、リコーフレックスIIIは月産1万台以上生産され、最盛期には1機種で日本のカメラ生産台数の50%を上回っていた。リコーフレックスIIIによって、ようやくカメラは大衆の手が届く消費財になったのである。
工業用複写機から事務用複写機へ
リコーフレックスIIIの発売から数年後、カメラ拡販のために渡米していた市村は、たまたま訪問した会社で事務机の上に置かれた卓上複写機を見た。当時は設計図面や建築図面の複写が複写機の主な用途であったが、この時市村には閃くものがあった。工業用とばかり思っていた複写機は事務機として売れるのだ。そうすれば感光紙の市場はさらに拡大する――。帰国した市村は、早速卓上複写機の開発を命じた。1955年11月、リコピーの歴史を飾る第1号機「リコピー101」がデビューした。やがて訪れるオフィス・オートメーション時代の種が、こうしてまかれたのである。
理研光学は1963年4月1日に株式会社リコーと改称するのだが、その前年の1962年には新たな複写機の開発に着手していた。電子写真の技術を導入し、製本された原稿の複写を可能にした湿式EF複写機の開発である。独自のインミラーレンズを採用して小型化を図り、現在のコピー機と同じように、ガラス板上の原稿を動かすことなくコピーがとれる複写機として完成し、「電子リコピーBS−1」と名づけられ1965年9月に発売された。その頃のリコーは数々の事業の成功で気が緩んでいたのかもしれない。この年に日本経済を襲ったいわゆる「40年不況」も手伝って、経営難に陥り、ついに無配に転落してしまった。その危機を救ったのがBS−1であった。小型なうえ、手軽に毎分2枚のコピーがとれることでたちまちベストセラ−となり、後に語り継がれる「リコーの救世主」となったのである。
いち早くデジタルへ
75年の経営方針発表会で、当時専務の山本巖が日本で初めてオフィス・オートメーションを提唱し、77年のハノーバーメッセでその概念を世の中に打ち出した。現会長の浜田広は、社長だった当時、ディーラー・ミーティングの席上で「これからはOAの時代だ」と話したことがある。マスコミでもOAという言葉は使われていなかった。オフィス・オートメーションもOAもともにリコーが世の中に発信した言葉であり、概念であった。
創成期のOAをリードしたのが、75年2月に発売された小型普通紙複写機(PPC)「ニューリコピーDT1200」である。PPCの分野ではゼロックスが基本特許を持っていたためリコーは出遅れたが、DT1200は基本特許の期限切れに加えリコー独自の技術を活かした湿式のPPCとして開発、半年で2万5,000台という驚異的な売り上げを記録し、PPCの分野でも、リコーは台数シェア1位の座を獲得した。
OAのほかにもうひとつ、リコーが時代に先駆けて着手していた技術がある。デジタルである。73年、リコーをリーダーとする日・独・米の共同プロジェクトが、世界初の一般事務用量産型デジタルファクシミリ「リファクス600S」を完成させた。
当時事務用ファクシミリはアナログしかなく、A4判の原稿を1枚送るのに6分かかっていた。リファクス600Sは、書画情報の読み取り、データ処理、伝送、記録、システム制御のすべてをデジタル処理するもので、A4判の原稿1枚の送信時間を、一挙に1分にまで短縮させたのである。リコーのデジタル技術は大成功を収めたが、デジタル技術の実用化は、じつはその10年以上前に実現していた。1962年、リコーは加入電話回線を使ってデータ通信を行う装置を2機種発表していた。世界初の音響結合方式のモデム「リコープリンターフォン」と、通信速度50bpsのデータ送受信装置「リコーミニター」である。これは日本の通信業界に波紋を呼び、加入電話回線がデータ送受信のために開放されていくひとつの契機となった。感光紙、カメラ、複写機を主体としてきたリコーは、ここから、まったく未知の分野であったデジタル技術へと進出していくのである。
さらに新たな地平へ
感光紙一枚の技術から始まったリコーは、画像処理技術をキーとして進化し、現在はデジタル・ネットワークによるソリューションを核に事業を展開している。リコーの歴史を牽引してきたものは独特の先見性であることは間違いないが、それは商品開発だけにとどまるものではなかった。
その最も顕著な例が、75年のデミング賞の受賞である。71年11月、当時の舘林社長は約270人の幹部社員を前にデミング賞への挑戦を宣言し、その日から、全社的な品質管理(TQC)運動がスタートした。当時開発段階にあったリコピーDT1200を新機種開発の事例に取り上げ、4年間のTQC運動が推進された結果、事務機業界では初めてのデミング賞受賞につながった。その10年前に無配という危機を招いた企業体質は、デミング賞への挑戦によって一変し、見違えるように強化された。
そして、現在、リコーの先見性を最も示しているのが環境経営への取り組みである。企業活動のあらゆる側面で地球環境への負荷を削減しながら、経済的価値を追求していくことが環境経営である。リコーはその活動と製品を通して、省資源、リサイクル、汚染予防などを推進するとともに、世界中で原生林の保全と修復活動を行い、世界でもトップクラスの環境経営を展開している。顧客への貢献によって経済活動を行うことが企業活動の根幹とするならば、環境に貢献することで経済的価値を追求する環境経営は、最も先進的な企業活動の形態といえるだろう。先見性とは、未来に必要なものは何かを理解し、先んじて実践する力である。未来型企業のひとつのモデルケースを、私たちはリコーに見ることができるかもしれない。
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対話の『質』をめぐる考察」 |
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