 |
 |
 |
| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
 |
2002年7〜8月号 Vol.56 |
 |
 |
大鉱脈の夢は、銅から光ファイバへ
古河電気工業株式会社 |
 |
 |
| 初代 古河市兵衛 |
|
2度にわたる倒産から力強く立ち上がり、
廃坑を宝の山に変えた男、古河市兵衛。
古河財閥を形成する基盤となった銅は
今、新素材へと姿を変えて、
世界第2位の光ファイバメーカー
古河電気工業の基盤を形成する。
 |
 |
東京・駒込にあるバラの名所、旧古河庭園。
庭園内にそびえ立つ洋館は、1917年、古河家三代目当主古河虎之助が 建てた古河家の迎賓館である(東京都教育委員会所蔵写真) |
|
 |
 |
 |
 |
 |
バラに囲まれた洋館
東京の駒込に、バラに囲まれたレンガ造りの洋館がある。3万780m2 の広大な敷地には、日本庭園と洋風花壇が渾然となった見事な庭園が広がり、春と秋には70種を超えるバラが咲き競う。古河財閥三代目当主古河虎之助が1917年(大正6年)に建てたもので、古河家の迎賓館に使われた旧古河庭園である。設計者は、明治から大正にかけて豪邸建築の第一人者といわれた J・コンドル。鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築学者である。戦後、財閥が解体されて以降、その名残を残す邸宅もほとんど姿を消し、旧古河庭園も東京都が管理する公園となっているが、この洋館こそ、唯一私たちが自由に見ることができる往年の財閥邸である。
現在、古河家は、五代目当主古河潤之助が継いでいる。そして、古河潤之助が社長を務める企業が、世界第2位の光ファイバメーカー、古河電気工業である。古河電工は、1884年に古河家初代当主古河市兵衛が創始した精銅業と、同じ年に横浜で開業した山田電線製造所にそれぞれ源を発している。その足跡をたどってみよう。
足尾銅山の成功
古河市兵衛は、1832年、京都の岡崎に生まれ、幼名を木村巳之助といった。木村家は代々庄屋の家柄だったが零落しており、巳之助は9歳の時から奉公に出された。18歳になると名を幸助と改め、盛岡の伯父の縁で南部藩為替御用掛鴻池伊助店に勤めたが、あえなく倒産。しかし、京都小野組の番頭をしていた古河太郎左衛門が、生糸の買い付けで盛岡を訪れた際に幸助の才能を見抜いた。幸助は古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と名乗ることとなった。ここで市兵衛の商才はしだいに開花していく。市兵衛は生糸取引に敏腕を発揮し、やがて養父に代わって小野組糸店の責任者となった。その働きぶりは生糸取引にとどまらず、築地製糸場を設立し、東北各地の鉱山を経営するなど、小野組の事業拡大に大いに貢献した。しかし1874年、政府は突然、為替政策を変更し、そのあおりで小野組は倒産、市兵衛はまたも主家を失うこととなった。
無一文となった市兵衛は独立して事業経営に乗り出すことを決意、翌1875年、小野組が所有していた新潟県の草倉銅山の払い下げを受け、最初の鉱山経営に踏み切った。続いて山形県の幸生銅山、八総銅山、九十郎畑銀山などを手に入れ、1877年には栃木県の足尾銅山の買収に成功した。足尾銅山はすでに掘りつくされて廃坑同然となっていたのだが、市兵衛は必ず豊かな鉱脈があると信じて疑わず、他の鉱山で得た資金をすべてつぎ込み、設備を近代化して掘り進んだ。そして1881年と1884年、ついに大鉱脈を発見する。こうして足尾銅山は日本の産銅量の約半分を産出する宝の山となり、古河の事業を拡大させる契機となっていったのである。
精銅事業への進出
当時、日本の銅はほとんどが海外に輸出されていたが、産出された粗銅は品質が不安定で、海外での評価はまだまだ低かった。市兵衛はその解決のために精銅事業への進出を決意、1884年、東京の本所に本所溶銅所を開設した。溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。銅加工品の生産である。精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加工品の生産によって国内市場を広げていく。これが市兵衛の狙いだった。銅を中心とする多角経営への第一歩である。操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は日本の産銅の約3分の1に達し、日本を代表する精銅所の地位を確立した。
1890年に、市兵衛は、欧米の最新技術を導入して足尾銅山にわが国最初の水力発電所を建設し、坑内外の電化を図った。足尾銅山は破竹の勢いでフル操業を続けていたが、その一方で、1890年前後から弊害が起きてきた。渡良瀬川沿岸に鉱毒が出始めたのである。政府は鉱毒除外予防工事命令を発し、市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだ。第3回予防工事は、使役労働者58万3,589人、支払い賃金47万円、資材42万円など、総額104万4,000円余りをかけ、180日間に及ぶ大工事となった。この大工事を終えたあと、さすがに疲弊したのか、1903年4月、市兵衛は72歳で没した。経営は二代目当主古河潤吉の手に移っていった。
古河鉱業会社設立
潤吉は、経営の近代化をめざして事業と家業の分離を主張していたため、古河は1897年、古河家本店を古河鉱業事務所と改称、経営組織を整備した。そして1905年3月、潤吉は合名会社に準ずる法人組織として古河鉱業会社を設立し、4月に社長に就任した。この時潤吉は、後に平民宰相と呼ばれた原敬を副社長として招いている。古河鉱業会社の設立と前後して、1906年7月、電気精銅と銅線製造の拡充のために日光電気精銅所を開設、設備の充実とともに生産も増加し、日露戦争前後の企業ブームに乗って古河は急速に勢いを増していった。しかしその前年である1905年12月、潤吉は病に倒れ、志半ばにして36歳の若さで死去。2代社長には、市兵衛の晩年の子である古河家三代目当主古河虎之助が就任した。
交差する2つの流れ
本所溶銅所と同じく1884年に横浜の発明家、山田与七が設立した山田電線製造所は、1896年、本格的な発展を期するため横浜電線製造株式会社として組織を一新。しだいに評価が高まり、横浜でも有数の事業所として発展を続けていた。しかし電線の原料となる銅線が不足し、生産の拡大を妨げるようになってきた。当時、京浜地区で電気銅線を供給できたのは古河の本所溶銅所だけで、需要の増加に生産が追いつかなかった。そこで横浜電線製造では1904年から、毎月の使用予定高を概算し、半期ごとにまとめて購買する契約を本所溶銅所と結ぶことにした。こうして古河市兵衛と山田与七が創始した2つの事業の流れが交差し、その関係は密接なものとなっていく。古河では、こうした需要増が、1906年の日光電気精銅所開設へと結びついていったのである
古河電気工業株式会社の誕生
日光電気精銅所が開設された1906年頃は、水力発電を中心とした電気事業の著しい成長期にあり、電線業界は長距離送電用ケーブルや通信ケーブルを主軸に活況を呈し、競争が激化していた。古河でも電線事業への参入を模索していたが、その頃、横浜電線との間に提携の計画が浮上していた。1908年、古河は横浜電線に資本参加し、ケーブル事業を中核とした電線事業に進出。続いて、矢部電線、日本電線、九州電線、日本電線製造など、電線業界の有力な企業を次々に傘下に収め、電線業界で不動の地位を築き上げていった。
1911年、古河鉱業会社は機構改革によって古河合名会社に称号を変更、第一次世界大戦による未曾有の好況を通して、積極的な多角化に乗り出していった。それは産銅事業の関連分野にとどまらず、1917年には株式会社東京古河銀行を開業、同時に古河合名会社を合名会社古河鉱業会社に改称し、営業部門を古河商事株式会社として独立させた。こうして古河は、この3社を直系企業とする財閥コンツェルン組織を整えたのである。この時、それまで日光電気精銅所で行っていた事業や電線事業は古河鉱業工業部に属する事業となったが、電線業界での地位の強化と、さらには通信機器など弱電品への進出も念頭に置いて、工業部門独立の気運がしだいに高まっていった。そして1920年5月1日、新会社として古河電気工業株式会社が設立されたのである。
世界第2位の光ファイバメーカーへ
精銅、電線製造から始まった古河電工の事業は、海底ケーブル、アルミニウム、電池製造などを端緒として多角化を繰り返し、発展してきた。現在、事業領域は、光・情報システム、エレクトロニクス、新素材、自動車関連にまで及び、超伝導の研究開発では世界をリードする地位を築いている。2001年11月16日、古河電工は、アメリカの大手通信機器メーカー、ルーセント・テクノロジー社の光ファイバ部門を総額27.5億ドルで買い取り、一躍世界第2位の光ファイバメーカーに躍り出た。もともと光関連の技術では定評のある古河電工に、ルーセント・テクノロジー社の世界トップクラスの技術と膨大な知的資産が加わる意味は重大である。
今後、次世代大容量通信のコア技術を担うメーカーとして、古河電工が果たす役割は、ますます大きなものとなっていくだろう。
|
 |
|
|
 |
|
 |
|
 |
「株主総会
対話の『質』をめぐる考察」 |
| ・年間購読のご注文はFujisan.co.jpで! |
0120-223-223
(年中無休・24時間受付) |
|
 |
プラグインダウンロード |
|
|