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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2002年3〜4月号 Vol.54 |
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創業者
二代三郎助 |
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ひとつの発明によってまったく新しい商品が生まれ、
そのたったひとつの商品によって企業は羽ばたき、
今や世界企業へと発展を遂げた。
商品名をそのまま社名に冠した企業、味の素株式会社である。
しかしそれは平坦な道ではなかった。
未知の分野を切り開いてきた
起業家スピリットの物語が、そこにある。
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初期の「味の素」。パッケージ中央の登録商標「美人マーク」は、 1973年(昭和48年)まで使われていたが、登録は1908年(明治41年)で、 なんと味の素のデビューより早い |
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鈴木ナカ、ヨード事業を開始
ある日、妻が用意した湯豆腐を食べながら、ダシ用昆布のうまみの秘密を解き明かそうと思い立った物理化学者がいた。化学者がその答えを見出した1908年2月、ひとりの男が研究室のドアをたたいた。その男こそ、味の素の創業者となる二代鈴木三郎助、物理化学者は、東京帝国大学教授の池田菊苗。この出会いが、始まりであった。
さて、味の素の創業を知るには、ここで時計の針をもう少し戻さなければならない。帝国大学での出会いより20年ほど前、葉山の海岸で、物語は幕を開ける。
味の素株式会社初代社長、二代三郎助の母、鈴木ナカは、夫、初代三郎助が35歳の若さで世を去ったのち、家計の足しにと避暑客のために葉山で自宅の間貸しを始めた。その客のひとりに大日本製薬会社の村田春齢がいた。村田は海岸に漂流している「かじめ」に注目し、ナカにこれを焼いてヨードを作ることを勧めた。ナカはこの勧めに従い、嫁のテルとともにヨード製造を開始したが、その頃息子三郎助は東京の蛎殻町へ出かけ、投機に熱中するありさまだった。1888年の秋のことであった。
初代社長二代三郎助の「味の素」との出会い
投機に失敗した三郎助は、ナカに葉山に連れ戻されたが、はじめ、ヨードの仕事にはさして関心を示さなかった。しかし、早朝から日暮れまで母や妻が真っ黒になって働く姿を眼にして、さすがに少しずつ心が動いたようである。
一方、東京帝国大学教授、池田菊苗博士が、湯豆腐のダシ用昆布のうまみの正体を探ろうと思い立ったのは、三郎助が投機に失敗し葉山に戻ってから10余年たった頃である。博士は、甘・酸・鹹・苦味の他に独立した味が存在すると考えた。やがて、その正体がグルタミン酸であることを突き止め、その製造法を発明して特許出願した。そして1908年2月、昆布の研究をしている博士がいることを伝え聞いた三郎助は、紹介状を手にして博士の研究室を訪れたのである。しかし、博士の研究は昆布とは言っても、ヨードとは関係のないうまみについてであった。湯のみに少量の粉末を入れてお湯を注いだ飲物は「なるほど味はよいが、お湯を注ぐとシュウと泡立ったので実用としてはいかがなものか」と感じた程度。三郎助は早々に辞去したが、博士はこの発明品を栄養不良を救済し得る廉価なる新調味料であると確信していた。そこで、これを世に出すべく中央実業界へ事業化を働きかけたが、当時は誰からも相手にされない。そのとき頭をよぎったのが、その年の春に訪ねてきた三郎助のことである。博士は、1908年7月25日、特許が許可されたのを契機に、8月、三郎助に事業化を依頼した。
新調味料製造と販売の苦難
博士の熱心な勧めに心打たれ商品化を決意した三郎助は、この新調味料が誰からも嗜好され、家庭の必需品になり得るかとの問題を抱えつつも家族の理解を求めた。早速博士に特許共有化を申し入れ、利益が生じた際にはその一部を提供するとの口約束までとりつけた。
この新調味料は、三郎助の息子三郎の提案により、全員一致で「味の素」と命名された。当時、ヨード事業は順調に推移しており、この商品化は当初、三郎助の個人事業「鈴木商店」として始められた。発売に際し、三郎助は東京衛生試験所に安全性試験を依頼し、「味の素」が衛生上無害であるとのお墨付きを得ている。「味の素」は、1908年12月、薬屋店頭にて試験販売開始、翌1909年5月20日には一般販売が開始された。弱冠19歳の三郎は、宣伝を全面的に任され、三郎発案の新聞広告第一号は同年5月26日の『東京朝日新聞』に掲載された。その他、折込チラシやチンドン屋、京橋に開設された味の素本舗の店頭ディスプレイや屋上イルミネーションなど、三郎は次々に新しいアイデアを実現していった。
最初赤字続きだった「味の素」も大正中期からは、未だ貴重品とはいえ、高級料理店や宮内省御用品とされるなど、ようやく人々に受け入れられるところとなった。経営はヨード以来の製薬事業から「味の素」の販売へと展開され、問屋組織「味の素会」の結成や流通経路を把握するための開函券制度をはじめ、料理講習会なども企画され、「味の素」は瞬く間に全国に普及した。この間、類似粗悪品の氾濫や、有名な「原料へび説」などに悩まされ、苦難の連続であったが、「味の素」は商品として世に認知され、人々は耳掻きひと匙分を大切に料理に供したのである。
戦後、事業再建への道のり
1941年12月8日、日本は米英両国に宣戦布告、日本経済は戦時体制に突入した。「味の素」は統制品に指定されるとともに、アメリカ向け輸出も禁止された。包材は入手困難となり、容器を一部ボール紙に切替えることを余儀なくされ、一切の広告が禁止された。さらに1945年4月15日、「味の素」の生産拠点であった川崎工場は大空襲によって手ひどい打撃を受けた。
終戦から半年ほどたった1946年2月、社名を味の素株式会社と改称、同年5月「味の素」の生産が再開された。この年、三郎は三代社長に就任、陣頭指揮にあたった。その後、1950年代後半から60年代にかけての高度成長期には営業努力と製法研究による販売価格の引下げにより、「味の素」は食卓に欠かせない存在となり、台所の必需品となった。
一方、味の素はこの頃、2つの危機に襲われることになる。ひとつは1956年、協和酵工業株式会社が発酵法によるグルタミン酸ソーダ(MSG)製造の工業化に成功したことである。味の素は、創業以来、植物性タンパク質を加水分解する抽出法によってMSGを製造していたが、糖質を発酵させて作る発酵法は、使用原料の多様さと製造期間の短縮などによってコストダウンを可能にしたのである。味の素は、MSGの新製法の開発にあたり、1956年12月、中央研究所を開設、1960年代半ば頃までに年間研究費約20億円を投じて、MSGをはじめ、イノシン酸、グアニル酸、各種アミノ酸、核酸関連物質の研究開発に取り組んだ。この時期、発酵法を開発する発酵部門と、MSGを化学的に合成する合成部門で、研究者たちはそれぞれ競い合って研鑚を重ね、その後につながる技術の礎を築いていった。こうして味の素は、「味の素」の工業化によってさらに躍進を遂げていったのである。
もうひとつは、1969年にアメリカのオルニー博士が提言したMSGの安全性問題である。これは消費者に衝撃を与えたが、味の素では、オルニー博士の実験は並外れて大量のMSGを使用したもので、安全性には何ら問題がないことを強調、同時に国内外の権威ある研究所に長期試験と追試を依頼し、中央研究所でも徹底的に実験を重ねた。1980年にはアメリカの食品医薬品局FDAがMSG安全宣言を公表し、国連のWHO、FAOもその安全性を認めて、MSGの安全性が科学的に証明される結果となったのである。これら2つの試練は、いわば“災い転じて福となす”といったところで、この時期の研究開発体制の強化と、安全性に対する厳しい姿勢が、各国における味の素の根幹を形成していくこととなった。
事業展開で世界に羽ばたく
「味の素」の商品化に際し、味の素は、当初から朝鮮、中国、台湾へ販路を求めていた。東南アジアへの輸出も戦前から行われ、アメリカでは、ハインツの缶詰に採用され、広く愛されていた。その後、1961年のタイを皮切りに海外現地生産を開始、現在では東南アジアを中心に生産拠点は世界15カ国を数える。また、「味の素」以外でも加工食品や飲料、冷凍食品・ファイン分野でも広範に事業を展開、さらにアミノ酸の利用技術によって、アミノ酸そのものが持つ作用や機能を発見し、医薬用アミノ酸・医薬品をはじめ甘味料「アスパルテーム」、機能性栄養食品「アミノバイタル」など、健康栄養面の製品で好評を博している。このほかアミノ酸・リジンは世界各国で優秀な飼料添加物として採用されている。2002年1月現在、味の素の海外ネットワークは、連結子会社、持分法適用会社69社を数え日本を含む世界22の国と地域にわたっている。
「食品・アミノ酸系の日本から出発した世界企業」
1999年(創業90周年)味の素は「あしたのもと」という新スローガンを打ち出し、新生味の素として歩み始めた。グループの総合力を強化して、めざすは「食品・アミノ酸系の日本から出発した世界企業」である。この言葉には味の素の歴史と未来が集約されている。帝国大学の研究室での出会いから出発し、たったひとつの調味料から事業分野を拡大して世界企業となった味の素の歴史は、未知への挑戦の連続だった。もちろん、この起業家スピリットは現在でも脈々と流れ続けている。今後、どのような新展開をみせてくれるのか、21世紀、味の素への期待は大きい。
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