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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2001年9〜10月号 Vol.51 |
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太古のマテリアルから最先端マテリアルへ
三井金属鉱業株式会社 |
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| 三井金属発祥の地、神岡鉱山 |
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非鉄製錬事業でトン単位のビジネスを手がけていた企業は、
今やミクロン単位の電子材料をコアとする
スリムでグローバルな企業へと変貌した。
さまざまな電子材料でトップシェアを獲得する
三井金属の強さとは何か。
見事な変身を成功させた企業力を探ってみる
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電子材料のひとつTAB(Tape Automated Bonding)。
銅配線されたフィルムに、ICチップが一括ボンディングされる。
三井金属は、トン単位のビジネスからミクロン単位の技術まで手がけている |
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聖地の歴史に幕を下ろす
岐阜県の飛騨山地に、養老年間から採掘していたといわれる神岡鉱山がある。明治以降、産業の近代化に貢献してきた、日本を代表する非鉄金属鉱山だ。ここが、三井金属発祥の地であり、ひいては三井財閥の屋台骨として、なおかつ主力事業所として、その発展を支えてきた、いわば三井の聖地である。2001年6月30日、この日、三井金属は神岡鉱山での亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史にピリオドを打った。今後は、東京大学宇宙線研究所が素粒子実験のための施設として空間利用するほか、石灰などの小規模な採掘は続けられるが、亜鉛・鉛鉱石の採掘中止は、鉱山としての活動はほぼ幕が閉じられたことを意味する。経済環境の変化という要因はもちろん大きい。しかし、三井金属が自ら発祥の地を封印したことは、それ以上に、ある決意を感じさせる出来事であった。
三井財閥の主力3社誕生
三井財閥の開祖、三井八郎兵衛高利は、1673年、江戸本町に越後屋呉服店を開業して成功し、続いて為替両替業でも成功を収めていた。当時、関西地区は銀貨幣、江戸地区は金貨幣制度が基本であったが、大阪―京都―江戸間で金銀を現物輸送するのは時間がかかるうえ、途中で強奪される危険も伴う。そこで金銀を現送することなく、為替で決済しようというものである。高利が考案したこの為替システムは、江戸時代の金融制度としては画期的なもので、明治維新まで続けられる。もちろん、この時の越後屋呉服店が後の三越であり、為替両替商が、日本で最初の民間銀行となる三井銀行である。1871年(明治4年)、明治政府は金本位制を実施し、三井は、新旧貨交換と新貨幣鋳造の仕事を一手に引き受けた。貨幣鋳造用の原料は各地の鉱山から金、銀、銅地金を買い付けて調達していたが、その買い付け先のひとつ、岐阜県飛騨山地の神岡地区で稼行していた中西組が倒産し、1874年(明治7年)、三井はこの事業を引き継ぐこととなった。これが三井が鉱山経営に乗り出した最初であり、三井金属の発祥である。
続いて1876年(明治9年)7月1日、三井銀行が開業し、同時に三井物産が設立された。三井物産は三池炭鉱の石炭の輸出で大きく発展したが、1889年(明治22年)、その三池炭鉱が政府から民間へ払い下げられることになり、石炭輸出を主力事業としていた三井物産は是が非でもこれを入手しなければならず、やっとの思いで落札に成功。こうして、鉱山事業の両輪となる2つの鉱山が出揃ったのである。その後、鉱山事業は飛躍的に発展し、もはや三井銀行や三井物産の経営では手が回らなくなってきたため、1892年(明治25年)、三井鉱山合資会社を設立、翌年には三井鉱山合名会社に改組、そして1911年(明治44年)12月16日、三井鉱山株式会社が設立された。この後、三井鉱山は、三井銀行、三井物産とともに、三井の主力3社として重きをなすことになる。設立の翌年は、当時としては突出した総収入1,569万円で、年間70万円を配当し、鉱山会社として不動の地位を確立した。この頃、石炭、鉛、銀に加え、新たに亜鉛鉱の収益も安定するようになり、三井鉱山は、やがて世界一の亜鉛メーカーに発展していくことになる。
財閥解体から三井金属の誕生へ
順調に推移してきた三井鉱山であったが、第二次世界大戦後は、大きな打撃によって始まった。GHQによる財閥解体である。1948年当時、三井鉱山は、資本金4億円、総売上高163億円、従業員数8万3,870人という巨大企業に成長していたが、保有株はGHQが設立した持株会社整理委員会に譲渡させられ、財閥の称号と商標も使用禁止、会社は石炭部門と金属部門に分割されることになった。その後1950年に、再建計画によって金属部門を神岡鉱業株式会社として設立、1952年には財閥称号の使用禁止が解除されたため、三井金属鉱業と改称した。
1950年、朝鮮戦争が始まり、特需景気によって日本経済は戦後の不況から脱した。金属鉱業各社の業績は急伸し、三井金属鉱業は1951年から8年間、一般水準の2倍という高い給与を誇り、学生の就職希望ランキングでも常にトップだった。しかし、特需景気が終わり、一転して深刻な不況が訪れると、それ以降は苦難の連続となる。貿易の自由化、円高、オイルショック、産業構造の変化などに翻弄され、三井金属鉱業は幾度となく経営の危機に見舞われた。しかし、大幅な合理化、果敢な海外展開、多角化などによって苦難の道を乗り越えてきた。そして21世紀の始まりとともに、三井金属は大きな変化を迎えることとなった。
非鉄製錬事業からの脱皮
2000年3月末の三井金属の従業員数は、本体単独で2,902名。分割当時の従業員数1万人と比較して、いかにスリムになったか、おわかりいただけるだろう。幾度にもわたるリストラが完了し、三井金属は少数精鋭の企業体として生まれ変わった。実際、現在の同社は違う企業といっても差しつかえないぐらいの変貌を遂げている。その端緒となったのは、1989年6月の組織改変である。社内プロジェクトで1年かけて検討した結果、それまでの「非鉄製錬とそれ以外」という分け方ではなく、「鉱山・基礎素材」「中間素材」「部品加工」という事業領域を定めて事業本部制とし、異なる事業文化を育てることを目標としたのである。つまりこれは、成熟産業である非鉄製錬からの脱皮を意図したものだ。では、脱皮したあとに向かうべき目標は何か。それは電子材料という新たな素材への移行である。非鉄製錬から電子材料事業へ。それが新しい三井金属を語るキーワードとなる。
電子材料でトップシェアを獲得
ここで、主要な電子材料事業をいくつか見てみよう。筆頭となるのが銅箔である。パソコン、携帯電話をはじめ、今やあらゆる電子製品、電気製品に欠かせない半導体の基板に使われる素材が銅箔だ。三井金属が銅の川下製品として銅箔の製造に進出したのは、67年と意外に古い。しかしその甲斐あって技術開発の最先端を走り続け、半導体製品の発展とともに進化を続けてきた。今や販売シェアの40%近くを占める世界のトップメーカーである。
銅箔の延長線上にあるのがTAB(Tape Automated Bonding)テープである。TABは、銅配線されたフィルムに、ICチップを連続して一括ボンディングする実装方式のこと。さまざまな電子機器に使われるが、なかでも液晶駆動用のTABテープは需要が急増している。典型的な多品種少量生産の製品で、技術革新も早く、製品と生産設備のライフサイクルは非常に短い。このため新規参入が難しく、三井金属は国内の液晶駆動用TABテープ市場で60%以上のシェアを占めている。
特筆すべきもののひとつが電池材料だ。三井金属は、世界最大の電池材料メーカーでもある。乾電池の材料となる電解二酸化マンガンの製造を始めたのは1949年、戦後まもなくの頃である。そこから、電池メーカーとともに材料や技術の研究を進めてきた。さらに今後の需要拡大が見込まれているのが、トヨタのハイブリッドカー「プリウス」にも採用されたニッケル水素電池である。三井金属はその材料となる水素吸蔵合金を製造している。
本社移転、そして新生三井金属へ
99年1月、三井金属は伝統ある日本橋の三井本館から、旧大崎工場跡地に建てられた「ゲートシティ大崎」へと本社を移転した。名実ともに新生三井金属のスタートである。これまでも、非鉄製錬事業から電子材料への移行は徐々に行われてきたが、2001年度からの中期3カ年計画のなかでは、「電子材料をコアに据える」と、ついに明言されるにいたった。冒頭に記した神岡鉱山の亜鉛・鉛鉱石の採掘中止は、やはり、ひとつの時代にピリオドを打ち、新しい時代に歩を進める強い決意を象徴する出来事であった。
現在の三井金属は、銅箔事業本部、MC事業本部、機能材料事業本部、金属事業本部、部品事業本部、そして、関連事業本部の6つの事業本部制をとっている。さまざまな分野で成功を収め大きなシェアを占めてきたのは、非鉄製錬事業で蓄積された技術や経験を生かし、トップシェアが見込める分野に投資を集中した結果である。とはいえ、IT関連業界はご承知のとおり世界的な不振に陥っている。いかにこの状況をクリアしていくか、市場においてIT関連株へと変身した三井金属にとっても、ここが正念場である。
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対話の『質』をめぐる考察」 |
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