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| 「トップの素顔」「先駆者たちの大地」「投資基礎知識」など役立つコラムを掲載 |
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2000年7〜8月号 Vol.44 |
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江戸火消しの心意気と西欧の保険思想
安田火災海上保険株式会社
安田グループの創始者 安田善次郎
(8755 現・損保ジャパン株式会社)
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安田グループの 創始者 安田善次郎 |
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江戸時代に始まる火消しの伝統に、
西欧の保険思想を得て始まった日本の火災保険。
社会貢献と積極経営を軸に
関東大震災、太平洋戦争、そして高度経済成長時代と
幾多の変遷を経ながら
安田火災は時代を捉え
リーディングカンパニーへと成長した。
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金閣寺総門にいまものこるとびぐちマーク。
東京火災加入者の家の入り口には
すべてこのマークが掲げられていた |
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| 安田火災のマーク「とびぐち」に 込められた防災の願い |
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安田火災のマーク「とびぐち」に込められた防災の願い
損保業界でも常にトップクラス企業である安田火災は、社会貢献を理念とし、社会の変化を先取りしながら積極的に事業を展開してきた。損害保険は不測の事態に備えるものであり、いわば社会生活を縁の下で支えるリスクヘッジ機能である。100年以上に及ぶ長い歴史のなかで培ってきた安田火災の歴史を繙いてみよう。
そもそも日本での火災対策の歴史は江戸時代に始まる。徳川幕府の中央集権主義によって人口集中を招いた江戸では、毎年のように大火に見舞われた。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、威勢のいい火消しの活躍と、一番乗りを競う火消し同士の喧嘩が江戸の名物にもなっていた。
安田火災のシンボルマークともなっている「とびぐち」は、火消しの七つ道具のひとつ。当時の日本は、木造建築がほとんどであったため、ひとたび出火すると見る間に大火となった。そのため火消しの主な仕事は、とびぐちを使って家屋を壊していき、類焼を防ぐことだった。とびぐちが火消しのシンボルとなったのは、このようないわれがある。
2本の「とびぐち」を交差させ、保険という意味の英語“Insurance”の頭文字Iを組み合わせたものが現在、社章となっている。全体を水の字に見立て、火に対する水として火災保険を表したとされている。
火災保険思想の夜明け
保険の思想は明治以降、欧化政策とともに重要性が議論されるようになった。その中心人物が、当時日本に大きな影響を与えた外国人学者パウル・マイエット博士である。マイエット博士は「日本家屋保険論」を1878年(明治11年)に発表し、保険事業に対する政府・経済界への注意を喚起した。マイエット博士の所論は、家屋保険を国営強制保険として実施すべきであるとする制度論だった。当時参議兼大蔵の大隈重信らはいちはやく共鳴したものの、結局、実現はしなかった。
しかし、マイエット博士が火災保険の端緒を開いた功績は大きい。大隈重信に請われて火災保険の調査に参画した東京府知事の松田道之は、せめて東京府だけでも実施すべく立案した。松田は1879年、日本橋の大火を目にし「然れども一朝の変にして万戸を灰燼に付し、家産は蕩尽し、ひいては人命に及ぶ。何ぞそれ惨なることの甚しきや」と嘆いている。後に松田案を基に、安田火災の前身である東京火災の設立構想が練られており、火災保険思想が引き継がれていったのである。
日本初の火災保険の誕生
さて、松田道之は旧鳥取藩士であったが、東京火災の設立発起人には旧鳥取藩ゆかりの人物が名を連ねている。初代社長となった唯武連も鳥取藩士であった。当時、鳥取藩関係者の間で保険に対しての関心が高かったといわれている。1888年、日本初の火災保険会社、東京火災が創立された。
わが国初の保険金受領者は浅草から出た。浅草黒船町のこの人物は、新聞広告を出して東京火災株主に謝意を表している。そして火災保険の効用を社会一般に推奨しているところが興味深い。当時の新聞も「世人漸く火災保険の必要を感ず」と述べている。
こうして社会に広まっていった火災保険ではあったが、東京火災は資金不足に悩んでいた。その時に、経営立て直しの適任者として、白羽の矢を立てられたのが安田善次郎である。安田善次郎は両替商から身を起こし、安田財閥を一代で築き上げた近代財界の巨人である。安田善次郎は火災保険の前途が有望とみて一肌脱いだ。彼は抜群の経営手腕で東京火災を育てあげていった。
その後、東京火災は1901年に契約金額1億円の快挙を成し遂げている。
6社合併、安田火災の誕生
1923年(大正12年)、巨大地震が関東を襲った。空前の被害をもたらした関東大震災である。東京火災も本社社屋が全焼している。有形無形の被害は甚大であった。
日本はこの関東大震災以後、金融恐慌、2 度の大戦と波乱の時代へと突入していく。そして戦時体制のなか、損害保険会社の合併、統合が政府によって勧奨された。
1941年(昭和16年)に東京火災が太平火災を吸収。太平火災は当時、安田経営により再建の途上にあった。さらに1943年、東京火災の子会社であった東洋火災を吸収。そして1944年には東京火災と帝国海上、第一機罐が合併して安田火災が新設された。帝国海上(1927年に第一火災を合併)は、安田善次郎が創立者のひとりである海上保険会社。第一機罐はわが国唯一のボイラー保険会社であった。かつて紡績会社ではもっぱら蒸気機関を用いていたため、その必要性が高かったのである。
このように多々吸収合併を繰り返したことで、安田火災の歴史はいささか複雑化している。主力会社の東京火災と帝国海上がともに安田系であることから、「安田」が冠された。しかし、新生安田火災は荒天の船出であった。
敗戦、そして日本復興の道
安田火災が発足した1944年2月、戦局は緊迫していた。本土空襲によって本店、および多くの支店が焼失している。翌年敗戦。海外資産の喪失、市場規模の縮小、異常火災の続発など、戦後の混乱期にあって、経営再建は険しい道のりであった。
だが戦後、日本社会は大きく変わっていった。朝鮮特需景気をはじめ、神武景気、いざなぎ景気と経済は活況を呈する。そんななか時代の変化を捉え新種保険事業が動き始めた。
かつて損保は火災と海上が2本柱だった。そこへ第3の柱が現れた。それが自動車保険である。そして、モータリゼーションの本格化とともに、この第3の柱がしだいに大きくなっていった。交通事故増加を背景に、自動車保険の必要性が認識されてきたのだ。
三好社長の「T号作戦」―自動車保険への大展開
1963年に就任した三好武夫社長は経営理念として「拡大均衡」政策を提唱し、文字通り経営規模の拡大、経営内容の充実をめざした。折しも日本経済は高度成長時代に突入し、この追い風を得て、「拡大均衡」路線の真価が発揮されたのである。
この経営理念はまず「T号作戦」として具体化された。創業75周年に当たる1963年の春季部店長会議で発表され、営業収入増収の戦略目標が明確に掲げられた。
T号作戦とは、東京海上(T)を追い越し業界首位をめざす戦略目標である。昭和20年代、30年代、同社は順調に業績を上げてはいたが、シェアの観点からみると雌伏の時期であった。1963年末「180度の政策転換」といわれた社長通達が出された。それは、自動車保険に対する積極的な営業政策への転換である。特に成長が見込まれる自賠責保険への積極政策が打ち出され、74年度には、自賠責保険で初めて業界首位になりT号作戦を完遂した。
安田火災はそれまで、自動車・自賠責保険に対してどちらかといえば消極的な姿勢であった。なぜなら自動車保険は損害率が高かったからだ。しかし三好社長は「この期に及んで、なおかつこの保険を敬遠するならば、社会に奉仕してきた安田火災は、その誇りを自らぎ捨て、社会の信用を失墜することは容易に想像される」と、社長通達のなかで熱く語っている。
この政策転換に先立って、三好社長は米国の優良保険会社を調査している。「儲からないからやらないのではなく、損をしないようにこれを伸ばしていくところに経営者の仕事がある」とも語っている。昭和40年代、日本は貿易の自由化に備えて大量生産、大量販売の時代を迎え、乗用車も大量販売競争が繰り広げられた。自動車産業の転換期を迎えるこの時、三好社長の決断はまさに時機を捉えた絶妙のタイミングだった。
新本社ビルが着工されたのも、三好社長時代である。防災ビルの理想が体現されている新本社ビルは、76年に完成。日本の城をモデルにした末広がりの斬新な設計である。東郷青児美術館や健康開発センターなどのユニークな諸設備を備え、芸術感覚あふれる本社ビルは建築業協会賞も受賞している。
完成に先立って、この本社ビルにふさわしい大企業に成長するために、新本社ビル起工を機に「新本社建設大増収運動」が展開されたという。
積極果敢に経営戦略を打ち立て、数々の事業を成功させた三好社長の功績は計り知れない。いまに生きる安田火災スピリッツを築いた人物といえるであろう。
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