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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 2000年2〜3月号 Vol.42
 

先人たちの「進取の精神」
アサヒビール初代社長 山本爲三郎

山本爲三郎翁


「アサヒスーパードライ」の劇的な成功により、
キリンビールに並ぶトップ企業となったアサヒビール。
それは「躍進」というより、 「復権」というべきであろう。
明治半ば、大阪に生まれたブランド「アサヒビール」は、
国産化の意気高らかに、ほどなくトップにのぼりつめた。
そして、40余年にわたる「合同の時代」を経て、戦後に、
朝日麦酒として新たなスタートを切った。
その後の50年は、決して平坦な道ではなかったが、アサヒビールの名とともに
受け継がれてきたのは、先人たちの「進取の精神」である。

アサヒビールのシンボル・アサヒビールタワー(本社)と
スーパードライホール。
創業100年を迎えた1989(平成元)年に、
旧吾妻橋工場の敷地に完成したもので、
「川の手文化」の拠点として、墨田区庁舎、公団住宅などが複合する
マルチ・コミュニケーション・スペースとなっている。

1987年発売の、わが国初の本格的辛口生ビール「アサヒスーパードライ」。
出荷量世界第3位の超ブランドである。

堺の酒造家が興した「進取の企業」

  アサヒビール株式会社(朝日麦酒)の設立は、大日本麦酒が分割された1949年(昭和24年)である。大日本麦酒は、1906年(明治39年)に、大阪麦酒、日本麦酒、札幌麦酒の3社合同で生れた会社だが、もともと「アサヒビール」は大阪麦酒のブランドであり、その主力工場・吹田工場を継承したという意味でも、アサヒビールのルーツは、1889年(明治22年)創業の大阪麦酒ということになる。
  アサヒビール初代社長となった山本爲三郎の口癖は、「進取の精神」であったという。黎明期のビール大手の多くが、麒麟麦酒も含めて財閥系企業であったのに対し、大阪麦酒は堺の酒造家たちが興した会社だった。国産化を掲げて、製造技術だけでなく、大麦づくりや壜製造にも取り組んだ「進取の企業」であった。
  翻って、今日のアサヒビールの快進撃はめざましい。ビールは装置産業である。酒税法の壁があり、堅固な販売体制がある。そのハンディを打ち破って、業界三位に低迷していたアサヒがビールでキリンを抜くことができたのは、大胆な戦略と水際だった経営にあることは疑いない。その経緯はさまざまに語られているので、「アサヒスーパードライ」に結実した先人たちの精神をたどっていくことにする。

1903年、大阪麦酒が業界トップに

  日本にビールが入ってきたのは幕末である。ペリーが来航した1853年(嘉永6年)には、江戸の蘭医・川本幸民が文献をたよりに試験醸造を行い、これが本邦におけるビールの起源とされる。
  1870(明治3年)には、米国人コープランドが横浜・山手でビール醸造を始めた。日本人では、1872年に渋谷庄三郎が大阪でビール醸造を事業化。1876年、札幌で北海道開拓使麦酒醸造所が創設されている。その後、ビール醸造会社は100を超えたという。
  1887年になると日本麦酒醸造会社(「ヱビスビール」)、1888年に北海道開拓使麦酒醸造所の払い下げを受けた札幌麦酒会社(「サッポロビール」)が生まれた。1889年には、堺の醸造家・鳥井駒吉らが大阪麦酒会社を設立して、吹田で醸造を始めた。「麒麟ビール」も1888年に横浜・山手の醸造所を受け継いで誕生している。日本麦酒を率いる三井の馬越恭平、札幌麦酒の渋沢栄一、大倉喜八郎といった大実業家に伍して、国産化を標榜する大阪麦酒は、生田秀の努力により、1892年に「アサヒビール」を発売。シカゴ世界博やパリ万国博で最優等賞になるなど、外国ビールに遜色ない味と品質で気をはいた。大阪麦酒はビアホールやびん詰生ビールでも先鞭をつけ、1903年には生産高トップに立った。

大手3社の合同

  しかし、1900年にビールに酒税が課せられたうえ、日清戦争後の景気後退もあって需要が冷え込み、業界の再編が始まった。1906年、渋沢栄一の肝入りで日本麦酒、札幌麦酒の合同が進められ、大阪麦酒にも要請があった。鳥井駒吉は最後まで渋ったが、時の農業商務大臣まで説得にまわったため、遂に受け入れ、ここに上位3社合同による大日本麦酒が誕生した。シェアは実に72%を超えた。初代社長に就任した馬越恭平は、「国内での競争を避け海外に販路を拡大する」「大麦、ホップ、機械機器などの国産化」「日本人技師による製造」の旗印を掲げた。
  残る大手は、シェア20%の「麒麟ビール」と「カブトビール」。麒麟はドイツ式製法にこだわり、販売元の明治屋が醸造元を買収し、1907年に麒麟麦酒(株)が誕生した。「カブトビール」の丸三麦酒は、愛知の醸造家、盛田家(後にソニー創業者・盛田昭夫を生む)と中埜家(ミツカン酢で全国制覇)が育てたものだが、東武鉄道を育てた根津嘉一郎の傘下に入ることになった。根津はビール王・馬越に敵愾心を燃やし、後に大日本麦酒を脅かす存在となる。

戦時体制のなかで存立の危機に

  1914年(大正3年)に欧州で第一次大戦が勃発すると、景気の浮揚で国内需要が拡大する一方で、欧州からの輸入が途絶えた東南アジアへの輸出も急増した。うち8割が大日本麦酒だったという。大日本麦酒は、ドイツが撤退した中国・青島に工場を創設した。
  これに対して、根津は「ユニオンビール」「三ツ矢サイダー」を加えて日本麦酒鉱泉(株)を設立し、徐々に勢力を広げていった。この時、根津の片腕として、西宮や博多に新工場を建設したのが、後にアサヒビール(株)の初代社長となる山本爲三郎である。彼は、「三ツ矢サイダー」のびんを製造する硝子会社の社主だった。
  さらに、1929年(昭和4年)の恐慌を境に、寿屋(現・サントリー)の「オラガビール」や帝国麦酒の「サクラビール」などの新興勢力も登場し、大日本麦酒のシェアは50%を割り込むまでに低下した。やむなく、馬越は、1933年に大日本麦酒と日本麦酒鉱泉の合併調印を行うこととなった。その後は、戦時体制のもとでビールは価格統制から配給制に移り、商品名さえ単なる「麦酒」になった。戦局の悪化とともに、ビール工場の軍需工場への転用や、食糧増産のためにホップ畑やビール用大麦畑の転作が迫られるなど、ビール産業は存立基盤を失う寸前までいったのである。

大日本麦酒分割で、麒麟麦酒がトップに

  戦後、「過度経済力集中排除法」により、高橋龍太郎社長の奔走もむなしく、1949年、大日本麦酒は朝日麦酒と日本麦酒に分割された。9工場のうち、朝日麦酒は、吾妻橋、吹田、西宮、博多の4工場、「アサヒビール」「ユニオンビール」「三ツ矢サイダー」、ビール酵母製剤「エビオス」を継承した。
  朝日麦酒初代社長となった山本は、銀座の本社で「明朗清新なる社風を醸成し、全員麦酒産業人としての認識と会社への義務と責任とを自覚し自律の精神を以て目的に適合する行動をとられ確固たる意思と溌剌たる情熱とを培われん事を望んでやみません」と語った。分割時のシェアは、日本麦酒38%、朝日麦酒36%、麒麟麦酒26%であった。しかし、分割された会社と分割されなかった会社の差は大きかった。体勢が整わないうちに配給制から自由販売制に移行したことで出ばなをくじかれた。一番痛かったのは、大日本麦酒時代から地域別にサッポロ、ヱビス、アサヒのブランド展開を行ってきたために、東京ではアサヒビールの知名度がまったくなかったことだ。ヱビス、サッポロの牙城で、苦戦が続いた。これに対して、全国に販売網を持つ麒麟は着々とシェアを伸ばし、1954年にトップに躍り出たのである。

先進企業・朝日麦酒

  しかし、朝日麦酒には「進取の精神」が継承されていた。山本自身がパイオニアであった。製びんに始まり、日本麦酒鉱泉での新式工場建設、戦時下の大日本麦酒では国産ホップ自給化計画を指揮してきた。戦後も、ビール生産用大麦の確保のために、GHQのマッカーサー元帥に直談判したこともあった。
  知名度向上の施策では、PR誌「ほろにが通信」を創刊した。著名文化人を多数起用した斬新な誌面づくりは、広告文化のさきがけであった。
  1951年には、アメリカ生まれの「バヤリースオレンジ」を発売した。当時、コカ・コーラのボトリングの話もあったが、山本が「バヤリースオレンジ」を選んだのは、原液を輸入に頼らざるを得ないコーラに対し、努力次第でカリフォルニア・オレンジに負けないみかんをつくって日本に柑橘飲料産業をつくりあげることができるのではないか、という夢があったからだという。ニッカウヰスキーへの資本参加でも、「スコッチに匹敵するウイスキーをこの日本でつくる」という本物をつくることにこだわる竹鶴政孝へのシンパシーからだった。
  本業でも、ドイツの最新技術に学び、“世界最高のビール”と高らかにうたった「アサヒゴールド」を1957年に発売した。
  1960年には、わが国初の缶ビールを発売する。大阪大学などで金属臭が味に影響を与えないことを徹底的にチェックしたうえでの発売であった。1965年には缶切りのいらないプルトップ缶、1971年アルミ缶とオリジナル商品は続いた。ずんぐりした小びん「アサヒスタイニー」もヒットした。
  製造技術で特筆されるのは、1965年に登場した「屋外発酵貯酒タンク」だ。温度管理の難しい発酵貯酒タンクを断熱材で保護することで屋外に設置できるようにした。しかも、従来発酵槽は深さ4mが限界というのを10mにして、大幅にコストダウンと生産性向上を図ったのだ。この成果は、欧州醸造会議でも発表され、各社から技術供与の要請がきた。現在は、世界中で普及している。
  こうした展開にも拘わらず、麒麟との差はますます開いていった。ビールのような装置産業では、シェアの多寡がそのまま製造コストに響き、物流費、間接費の負担も相対的に高くなる。そこで、1962年に、朝日麦酒、日本麦酒の再合併構想が生まれたが、これは流れてしまう。さらに、朝日麦酒に痛手となったのは、この年、新規参入を表明した「サントリービール」に特約店を開放したことである。かつて東京進出で販路が確保できないために苦労したので、自社の販路を簡単に開放することについては社内の反対も強かったようだ。
  このことで、山本のことを悪く言う人もいたようだが、この施策は、当局の販売免許制度緩和の動きの機先を制し、業界の利益を守るための行動であったようだ。山本爲三郎は、朝日麦酒の「復権」を見ることなく、1966年に急逝した。
  その後、「アサヒビール本生」、「ミニ樽」がヒットしたものの、低迷は1985年まで続き、シェアは10%を切った。

遂に、「復権」成る

  「復権」は、1982年に就任した村井勉社長の変革に始まる。まず、消費者志向、品質志向、人間性尊重、労使協調、共存共栄、社会的責任の6つの柱からなる経営理念を定め、10項目の行動規範を社員に提示した。「企業イメージ向上計画(CI)」、「全社的品質管理(TQC)」、「業務効率化と事務環境整備」の三大テーマのもと、長年親しまれた「波に朝日」のマークが廃止され、ブルーの新しいコーポレート・ロゴマークが革新のシンボルとなった。
  成果はすぐに出てきた。5,000人におよぶ嗜好・味覚調査が行われ、そこから「コク」「キレ」のニーズが抽出され、中央研究所の酵母バンクから508号酵母が選ばれて、1986年に「アサヒ生ビール」が商品化されたのである。
  この年、樋口廣太郎・現名誉会長が社長に就任し、その指揮のもと「全国縦断百万人試飲キャンペーン」が始まった。そして、日本のビールの流れを根底から変え、アサヒビールの「復権」を担う「アサヒスーパードライ」が、1987年3月に発売された。ライフスタイルや食生活の変化に伴って、消費者のアルコール飲料に対する嗜好が「すっきりした軽快さ」に変化してきたことを知って初めて商品化できたまったく新しいタイプの「辛口」生ビールであった。その年、「アサヒスーパードライ」は当初年間100万ケースの見込みが実に1,350万ケースを売り上げ、翌年からのドライ戦争でも独走を続けた。1999年現在、「アサヒスーパードライ」は年間2億ケース弱を出荷する超ビッグブランドとなり、「バドワイザー」「バドライト」に次ぐ世界第三位のブランドとなっている。また、アサヒのビールのシェアは約44%とトップである。

取材・大喜三郎 撮影・山田勝巳
取材協力 アサヒビール株式会社
参考   「Asahi 100」アサヒビール株式会社





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