 |
すべては、自宅裏の『研究小屋』から始まった
11月2日、大阪府池田市に『インスタントラーメン発明記念館』が竣工し、記者団に公開された。展示ホールでまず目を引くのが、トタン葺きの小さな「研究小屋」である。昭和33年(1958)3月5日。安藤百福会長が、明け方まで研究をつづけて母屋に戻った直後の様子を忠実に再現してあった。
世界最初のインスタントラーメン「チキンラーメン」は、この年8月25日に発売された。値段は35円。決して安くなかった。丼にめんを入れてお湯を注ぐと香ばしい匂いが立ちのぼり、めんがほぐれる3分間を息をつめて見つめていた少年時代の記憶が蘇る。
ホールには、「チキンラーメン」「日清焼そば」「出前一丁」「カップヌードル」「焼そばU.F.O.」「どん兵衛」「ラ王」などが壁一面に展示されているが、報道陣の世代によって懐かしむ対象が異なるところが面白い。日比野克彦氏の壁画も見もの。2階には、実際に粉からこねてチキンラーメンをつくる「手作り体験コーナー」があり、子供たちの人気を集めそうだ。
会見に臨んだ安藤会長は、この記念館について、「七転八起のベンチャー企業の証しとして、苦境に陥った人々への励ましになればという気持ちでつくった。何より少年少女に夢を贈りたかった」と述べた。少年少女に対する安藤会長の思いは、この建物を所有する「日清スポーツ振興財団」に象徴されている。安藤会長は、昭和58年に自社株450万株と現金5,000万円(後に25万株、2億5,000万円を追加)の私財を投じて同財団を設立した。スポーツやキャンプを通じて“健やかな子供”の育成にあたるだけでなく、高校大学生を対象にした奨学金制度も実施している。さらに阪神淡路大震災に際しては、別途1億円をNHK厚生文化事業団に寄託、保護者を亡くした子供たちのため、奨学金制度を発足させた。
暗い時代を生き抜いた青雲の志
苦境に陥った人々への励ましと、少年少女への贈り物。それは安藤会長の人生に深く根ざしている。
安藤会長は、明治43年(1910)の生まれで、2000年には90歳を迎える。幼い頃に両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母のもとで育った。昭和7年(1932)に、父の遺産を元手に繊維会社「東洋莫大小」を設立した。地味なメリヤスには大手商社も目をつけていなかったので飛ぶように売れ、翌8年には大阪に「日東商会」を設立した。時代は満州事変から国際連盟脱退へと進み、経済統制が日増しに強まりつつあったが、安藤会長は光学機器や精密機械の製造に取り組むなど旺盛な事業家精神を発揮する一方で、立命館大学専門部経済学科に入学した。「社長がたまたま学校へ通っているという格好で勉学ということではあまり自慢することはできない」と自著『苦境からの脱出』では述べているが、立命館大学はその後の安藤会長の実業界での功績に対して平成8年に名誉博士号を贈っている。
『食足世平』−食への関心高まる
昭和20年、戦争が終わった。事務所も工場も灰燼に帰したが、安藤会長は屈することなく事業を再開し、繊維から百貨店経営、そして「食」へと関心を広げていく。
飢餓にあえぐ人々を見て、海岸に並べた鉄板に海水を流すという卓抜なアイデアで製塩を始め、病人用栄養剤にも手を染めて「国民栄養科学研究所」を設立した。梅田の駅裏で寒風にふるえながら屋台に並ぶ長い行列を見たのも、その頃である。「一杯のラーメンのために、人々はこんなにも努力するものか」(『苦境からの脱出』より)という思いは、行列の印象とともに深く脳裏に刻まれた。
GHQの占領政策も「チキンラーメン」誕生の動機である。当時、米国から援助物資として小麦粉が大量に送られてきていた。厚生省はパン食を奨励するため、「キッチン付き宣伝カー」を仕立てて農村を巡回し、映画ニュースや新聞でも大々的に紹介された。これは、最近になって、小麦粉余りに悩んだ米国の新市場開拓キャンペーンだったことが明らかになっているが、当時の日本人の多くは米国の援助と食文化支援の活動をもろ手をあげて歓迎していたのである。
しかし、安藤会長は不満だった。「東洋には、めん食の伝統がある。めん食をなぜ粉食奨励に加えないか」。厚生省の職員に問題提起すると、「製めん業は零細業者が多く、供給体制に難がある。それほど言うなら、ご自分でやったらいかがですか」。この時は、自分の事業に手一杯で、動くことはできなかった。
不屈の精神が生んだ「チキンラーメン」
「チキンラーメン」への道は第二の挫折から始まった。事業家・安藤会長のもとには、いろんな人間が集まってくる。「名前だけでも」と懇願されて信用組合理事長に就任したが、「金融知識に乏しく、人任せにしていた」ために、次第に経営が悪化して遂に倒産してしまった。理事長には無限責任があり、事業の一切を失い、残ったのは池田市の自宅のみだった。昭和32年(1957)のことである。
しかし、安藤会長はめげない。「チキンラーメンの発想にたどりつくには、48年の人生が必要だったのである。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に見えない糸でつながっている」と『奇想天外の発想』に記したように、この時、終戦直後に梅田で見た屋台に並ぶ行列と厚生省役人の言葉が蘇ってきた。裏の小屋にこもり、“おいしく、保存がきき、簡便に食せて、安価・安全な”めん開発の試行錯誤の日々が始まった。
ある時、奥さんがてんぷらを揚げているのを見て閃くものがあった。「油で揚げれば水分がとんで保存性がよくなるのではないか」。『瞬間油熱乾燥法』の発見だった。めんを油で揚げると、めんの内部から水分が蒸発し、細かい穴のあいた多孔質になる。熱湯を注ぐと多孔質部に湯がしみこんで短時間に元に戻るが、これだけではおいしいラーメンにはならない。ワンタッチでお湯をかけるだけで食べられる究極のラーメンは、スープをめんにしみ込ませる点にあった。めんにスープを練り込んだり、着味をしたり、多くの実験をくり返して、着味の方がいいとの結論に到達するまでには、多くの課題を克服する必要があった。スープの塩分が強すぎると、めんがボロボロになる。安定した品質のチキンエキスの抽出や配合するスパイスの種類や醤油とチキンエキスの配合比率。これらを一つ一つ手作業で確認していく気の遠くなるような実験が繰り返された。こうして試作品は完成した。工場は倉庫を借りた。手作業で蒸し、天日に干し、油で揚げて袋詰めにするまさに家内工業であった。
大津波がやってきた
発売は昭和33年8月25日。最初、問屋筋は「35円は高い。うどん玉なら6円もしない」と冷淡だった。しかし、安藤会長はゆるがない。味に絶対の自信があったからだ。新商品は新しい方法で売る、現金売りに徹してあくまで強気を貫いた。やがて、木津の中谷商店が第一号の取引先となり、宣伝・試食販売にも熱が入った。
それが“大津波”の前兆だった。「お湯をかけるだけの魔法のようなラーメンはないか」という電話が問屋に続々とかかるようになったのだ。問屋がトラックで工場に乗り付けて争うように仕入れていくので、たちまち品不足になった。現金先納で予約する問屋さえ出てきた。創業時は従業員20人で日産30食入300ケースだったが、半年後には従業員を200人に増やしても注文に応じ切れなかったのである。この年12月、商号を日清食品株式会社(昭和23年設立の中交総社が、サンシー殖産を経て変更)とした。
翌34年には高槻工場の建設に着手。36年には従業員は約1,000人に達した。その間、三菱商事、東京食品、伊藤忠商事といった大企業と代理店契約を結んだ。その一方、投資にあたっては、“入りを量って、出ずるを節する”を基本に、無借金経営を社是とした。信用組合での苦汁に学んだ選択だった。そして、「チキンラーメン」発売からわずか5年後の、昭和38年には、東証2部・大証2部への上場を果たしたのだった。
知的所有権に対する断固たる姿勢
時代の寵児「チキンラーメン」に対して、追随者が続々と加わり、インスタントラーメンの消費量は、把握できただけでも、昭和34年に7,000万食、36年には1億5,000万食へと急成長し、製造メーカーも100社を超えた。
粗悪な類似品も増えてきた。そこで、“信用”をかけた長い戦いが始まる。まず、昭和35年に意匠権で裁判に勝ち、翌36年には「チキンラーメン」の商標登録を確立した。次に製法特許権をめぐる戦いである。昭和37年に「即席ラーメンの製造法」が確定。113社に警告が通知された。欧米では常識でも、日本に知的所有権を尊重する風土はまだ乏しかった。そのような状況下で、日清食品の断固とした姿勢は特筆される。
ただし、安藤会長は、昭和39年、「野中の1本杉になってそびえるより、豊かな森にした方が実りが多い。大衆に安く商品を提供するためにも小異を捨てて大同につく」として、「日本ラーメン工業協会」を設立して製法特許権をゆずった。この英断により、業界は大きく発展したのである。翌40年には、JAS(日本農林規格)を取得し、製造年月日を率先して記載してもいる。
また、知的所有権への意識の高さは、常に時代をリードする商品開発に裏打ちされていた。安藤会長は、昭和36年に日清食品研究所(現・中央研究所)を創設。嗜好を測定する「官能検査法」など科学的な手法を導入し、「スパゲニー」、「日清ワンタンメン」、「田舎そば」、「日清ランチ」などを次々と発売し、トップメーカーの地位はゆるぎないものとなっていった。
国際食「カップヌードル」の誕生
「おいしさに国境はない。インスタントラーメンは“国際食”になる」と開発当初から思っていた。米国へのサンプル出荷でその思いは確信に変わった。しかし、丼と箸のない国にどう売るか。ヒントは昭和41年の欧米視察の折り、現地のバイヤーが紙コップで試食したことだった。帰路の飛行機で供されたマカデミアンナッツのヒートシール(熱溶着)したアルミの上ぶたはカップヌードルのふたの密封性を思いつくうえで大きなヒントになった。
早速、カップめんの開発が始まった。容器には保温性に優れた発泡スチロールを採用した。中身も新しい発想が必要だった。袋めんに比べてカップめんは厚い塊になるので、中まで均一に揚げるのは難しい。これは、上部を密にして下部を疎にするめん構造で解決した。フリーズドライのエビや卵の採用も斬新だった。こうして、昭和46年に「カップヌードル」が発売された。
これに先んじて、昭和45年にロサンゼルスに「アメリカ日清」が設立され、47年から「カップヌードル」の本格操業が開始された。そして、フィリピン、英国、ブラジル、シンガポール、香港、韓国と技術供与先や合弁事業先が次々と生まれ、インスタントラーメンは、文字通り「国際食」となっていったのである。
『初心再出』、食文化への貢献
日清食品創立30周年にあたる昭和63年、安藤会長は年頭の定是で『初心再出』を掲げた。「日常に慣れ、安易に日々を送っていないか、ゼロから出発した原点に立つこと、創造的破壊なくして再出発はありえない」という激しいメッセージであった。
昭和57年、安藤会長は勲二等瑞宝章を受章している。昭和60年には、ご子息安藤宏基氏が社長に就任し、自らは会長に就いた。すべては、順調だった。そうした中での『初心再出』である。慢心やおごりを戒め、育てていただいた消費者に報いよ、世界の食文化に貢献せよ、と訴えているように聞こえる。
『インスタントラーメン発明記念館』の竣工式には、苦楽を共にした安藤会長夫人の姿もあった。安藤宏基社長も10歳の頃、この研究小屋で、めんの乾燥や米国に送るサンプルの荷札を書いたそうだ。「家業ですから」とさりげなく語って会長夫妻を見守る安藤社長の姿が強く印象に残った。 (文中、社名は略称とさせていただきました)
※2007年(平成19年)1月5日、安藤百福氏逝去。文中の内容は掲載当時のままとさせていただいています。
|
 |