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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1999年8〜9月号 Vol.39
 

天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
花王創業者 初代長瀬富郎

花王創業者
初代 長瀬富郎

月のマークで知られる花王石鹸。
明治半ば、洋小間物商を営んでいた初代長瀬富郎は、
粗悪な石鹸の蔓延を憂えて、
自ら品質本位の化粧石鹸製造に乗り出した。

『天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』
初代長瀬富郎の真っ直ぐな志は、
花王110年の歴史を貫いて変わることはない。

明治23年(1890)に発売した桐箱入り花王石鹸。(復刻)
商標・包装デザインも初代長瀬富郎の手になる。
左は翁愛用の調合帳。
背景は当時の特約店に掲げた看板。
(花王「清潔と生活」小博物館蔵)

化粧品『ソフィーナ』

米相場で挫折し、小間物商に

  墨田区にある花王東京工場(すみだ事業場、東京研究所)の正門を入ってすぐ右手に、花王神社がある。樹齢50年になろうかというソメイヨシノが鳥居を包むように枝を広げ、木もれ陽の中に『天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』と記された石碑があった。創業者長瀬富郎の直筆になる遺訓である。
  長瀬富郎は、文久3年(1863)、岐阜県恵那郡福岡村に生まれた。中津川から飛騨に通じる道を付知川沿いに北上し、さらに支流の柏原川をさかのぼった山間の村である。実家は村役と造り酒屋を兼ねる家であった。前年には、将軍家茂に降嫁する皇女和宮の一行が中山道を中津川から馬籠に抜け、時代は夜明け前を迎えていた。
  明治になって、学校を終えた富郎は親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入り、17歳で下呂の支店を任されるまでになった。しかし、独立心抑えがたく、明治18年(1885)に上京し、150円(現在の500万円ほど)を元手に米相場をはった。が、あえなく失敗し、なけなしの金を失ってしまった。やむなく、日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」につとめることにした。当時の馬喰町には、マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどの舶来品を扱う問屋が軒を連ねており、なかでも石鹸の人気は大変なものだった。
  石鹸は、織豊時代に「しゃぼん」の名で日本に入っていたが、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことである。輸入物は高価だったので、明治3年に大阪、続いて京都に官営石鹸工場が建設され、民間でも明治6年に横浜で製造が始まっている。ただし、化学工業が未熟なことと原料のやし油や苛性ソーダ、香料が入手難であったため、国産品は洗濯石鹸が中心だった。

粗悪品に義憤を感じ、自ら製造に乗り出す

  富郎は、若松屋での経験を生かし、伊能商店ですぐに頭角をあらわしたが、独立するために1年余で辞した。郷里に戻って資金を工面して、明治20年(1887)に馬喰町の裏通りに間口2間の「長瀬商店」を開き、石鹸と文房具の卸売を始めた。馬喰町の升屋旅館の三女なかと結婚もした。商売は順調で、帽子、ゴム製品など、商品の扱いも広げ、1年後には表通りに店を構えることができた。この時すでに、富郎は、詳細な損益計算書を作成している。
  長瀬商店では、米国・コルゲート社の石鹸のほか国産石鹸も扱ったが、需要の広がりとともに粗悪品に悩まされるようになる。当時の商習慣で、返品は問屋でかぶるほかなかったのである。
  そこで、自ら石鹸製造に乗り出すことにした。富郎は国産品の悪評を払拭するため、敢えて高級な洗顔用化粧石鹸をめざした。ちょうど仕入れ先の石鹸職人村田亀太郎が独立したので、長瀬商店専属として廉価品の製造から始めた。そして、知人の薬剤師瀬戸末吉に分析の基礎を学び、原料や香料の調合に没頭する日々が続いた。
  明治23年、試作開始から1年半で遂に製品は完成した。能書きに高峰壌吉博士(後にジアスターゼ発見で世界的化学者になる)の分析結果を記載するなど品質には絶対の自信があった。富郎は高級舶来品のようにブランドをつけて売り出すことを考えていた。商標を“顔”に通じる「花王」(出願時は「香王」)とし、半月印の口から花王石鹸の文字が出る図案も自ら描いた。製品はろう紙で包み、能書きを添えて花王マークを印刷した上質紙で巻いた。そして、桐箱に3個を納めて35銭で販売したのである。コルゲート石鹸でさえダース28銭だったから、飛び抜けて高価な商品だった。

新聞から野立看板まで多彩な広告展開

  狙いは当たった。桐箱入り花王石鹸は贈答用に重宝されたのだ。石鹸は今に至るまで中元・歳暮の主役のひとつとなっている。むろん、その成功は販路拡大と宣伝に力を注いだ結果である。当時は、上方と関東とは独立した商圏になっていたが、富郎は関東に特約店を広げるだけでなく、大阪にも特約店を置いた。この大阪の特約店が5年後に花王石鹸の44%を扱うまでに発展するのである。また、富郎は、100ダース以上1ダース0.5銭、1,000ダース以上同1.5銭などと割り戻し(ボリューム・ディスカウント)を採用した。景品販売にも着目し、風呂敷、うちわなどを配布している。
  宣伝については、アメリカ人ジャーナリストに欧米の化粧品宣伝の実情を聞き、全国の新聞に積極的に広告を掲載した。広告コピーからレイアウトまですべて富郎がこなしたことはいうまでもない。鉄道沿線に設置する野立看板の広告利用も花王が最初とされる。鉄道網が全国に広がると、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に野立看板を立てていった。劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布なども精力的に行っている。
  また、瀬戸の指導のもと、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始した。さらに、化粧水『二八水』を明治33年に発売した。これが花王化粧品の嚆矢ということになろう。

出資銀行の破綻で窮地に

  明治28年(1895)、花王石鹸は発売5年で4.4万ダース、3万円余を売り上げる驚異的な成功をおさめた。もう、家内工業的な生産では追いつかなくなってきた。村田の工場では鉄釜を職人が撹拌して鹸化や塩析を行い、型枠に流してさらに練り作業を行う。できた製品は天日乾燥し、木槌で1個1個刻印しており、同業に比べても近代化では大きく遅れていた。そこで、明治29年に向島須崎に新工場を建設した。鹸化や塩析は依然として職人仕事だったが、足踏み式切断機、型打ち機、乾燥室などを設置した。それでも明治32年には売り上げが6万円を超えるほどになったので、急遽、同じ向島請地に新工場を建設し、米国から機械練装置一式を導入することにした。
  ところが、馬喰町、横山町界隈の小間物商が共同出資して設立した東西銀行が明治33年に破綻した。組合の副頭取となっていた富郎は、東西銀行の取締役に就いていたので、債務整理のために私財16,500円を拠出するなど『筆紙ニ顕シ』難い辛酸をなめた。増産投資もままならず、石鹸の売り上げも6万円台の停滞が続いた。
  その傷が癒えた明治35年暮れ、ようやく請地工場が稼働し、仕込みから包装までの一貫生産が実現した。売上高も明治40年には一気に10万円を突破した。
  この請地工場には明治39年に石鹸工場初の試験室が設置された。

天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ

  長瀬富郎は、明治44年(1911)、48才で生涯を閉じた。おりしも、世界最大の石鹸メーカー、英国のリバー・ブラザーズ社が神戸に工場を建設するというニュースが流れた翌年のことであった。
  明治42年頃から健康に優れなかった富郎は、迫り来る外資の圧力に抗するため、業界の先頭に立って『石鹸、歯磨、化粧品は贅沢品にあらず、実用品なり』と、石鹸への課税、香料や原料の輸入税値上げ阻止に動き回っていた。そうした過労も重なって明治43年には床につくことが多くなった。富郎は遺言書をまとめ、長瀬商店を合資会社長瀬商会に改組することにした。新会社の理念『人ハ幸運ナラザレバ非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ、運ハ即チ天祐ナリ、天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』を定め、役員、社員が協同一致して、品質、経済に留意して、事業を続けるよう申し渡している。
  明治43年の広告は、富郎の消費者への辞世ともいえよう。
  『本邦の石鹸界に在りて、其経歴の最も古くして其製法の最も新しく、其品質の最も純良にして其価格の最も低廉なるものは我が花王石鹸なり。品質を本位となし、年と共に改善を加えて常に時世に先駆たる特色を備え、衛生に経済に化粧に其効用を発揮しつつ、社会に貢献す』
  富郎の死後、経営は弟の祐三郎、常一に受け継がれた。そして、富郎の三男富雄が二代目富郎を襲名し、無限責任社員に連なった。

関東大震災を越えて

  合資会社長瀬商会は、祐三郎が総務、販売、経理を、常一が研究開発、生産、工場管理を分担してスタートした。兄の堅実経営を踏襲して「石鹸第一主義」を掲げ、操業開始したリバー・ブラザーズ社の『ベルベット石鹸』に真っ向から挑んだ。
  元号が大正に変わった3年(1914)、欧州で第一次世界大戦が勃発すると、日本に好景気が到来するとともに輸入品が途絶したことで、国産品に追い風が吹く。大正6年には、現在の東京工場となる吾嬬町工場の建設が始まった。ところが、主要設備を請地工場から移転し終えた大正12年8月31日の翌日、突然の大地震が東京を襲った。関東大震災である。下町一帯は猛火に包まれ、死者10万人におよぶ大惨事となったが、幸い、吾嬬町工場は建物の一部倒壊だけで火災を免れた。石鹸は緊急物資である。社員は総出で復旧にあたり、9月20日には生産再開にこぎつけることができた。
  翌年1月には吾嬬町工場内にグリセリン精製工場が竣工した。グリセリンはダイナマイト用に需要が急増し、大正13年にわずか33円だった売り上げが、翌年には11万円に急増した。前後してコプラ窄油工場も完成した。
  この間、祐三郎は、大正5年に工場内に学習所を設けて工員教育を行い、共済制度も手厚く整備するなど、近代化を進めていった。ただし、店舗については伝統的な徒弟制度を継続した。そして、大阪倉庫事務所の新設など着々と事業を拡大し、大正13年の売上高は276万円、利益は実に55万円を記録している。

二代目の時代へ

  昭和の時代を担ったのは二代目富郎である。大正14年(1925)、同志社大学を退学して長瀬商会に入社した富郎は、花王石鹸株式会社長瀬商会に組織変更した。その後、祐三郎と常一の長男も経営に加わり、花王石鹸は二代目の時代を迎える。
  社長に就任した二代目富郎は、『事業の目的とは』と社員に問いかけた。彼は、事業の目的は『社会の進歩発展に則して、人々の要求に適合した製品を供給することによって、社会的な使命をまっとうすること』としている。この目的を実現するために人材登用と一致協力の精神で力を涵養することが、新しい会社の理念となった。役員会を設置し、店員徒弟制度も廃止された。
  こうした近代合理精神は、欧米視察から体得したものであろう。彼は、デパート、チェーンストア、通信販売会社を精力的に巡り、プロクター&ギャンブル社の視察についての見学記を残している。
  この時代を象徴する製品は『新装花王石鹸』である。東北大学に学んだ川上八十太を研究主任にすえて徹底した品質改良を進めるとともに、包装デザインの改良にも取り組んだ。デザインの試作コンクールには当代一流のデザイナーの作品が集まったが、最終的に選んだのは最年少の原弘の作品だった。オレンジ色に白抜き文字で「Kwao・Soap」と描かれた『新装花王石鹸』は昭和6年(1931)に初出荷されたが、戦後も昭和40年代まで広く親しまれた。
  『新装花王石鹸』の発売は、当時の乱売合戦に花王石鹸も巻き込まれつつあったことに対抗したもので、「純度99.4%」と品質を広告でうたうとともに、特約店に対して新製品3ダースにつき旧製品を2ダース引き取るという画期的な流通在庫の圧縮政策を行った。当初は予想を超える旧製品の返品と、新製品の浸透の遅さに苦しんだが、2年後には一気に売り上げが伸びていった。
  二代目富郎は、昭和9年に長瀬家事研究所を設立して主婦向けに家事諸般の啓蒙活動を行い、製品では昭和7年に『花王シャンプー』、昭和9年に粉石鹸『ビーズ』を発売するなど、トップメーカーの地位を不動のものにしていった。

(文中・敬称略。初代、二代目は明らかなものについては省略しました)
取材・大喜三郎 撮影・古城 渡
取材協力 花王株式会社
参考『花王史100年』
   『花王石鹸五十年史』
   『初代長瀬富郎傳』





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