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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1999年2〜3月号 Vol.36
 

「科学技術立国」の黎明を告げる声
理化学研究所第三代所長
理研産業団創始者 大河内正敏

(6462 現・株式会社リケン)
大河内正敏
(理化学研究所提供)


長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎、
寺田寅彦、仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹・・・。
1917年に設立された理化学研究所には、
日本のCOEと呼ぶにふさわしく、きら星のごとく俊才が集っていた。
その栄光の時代を率いた第三代所長・大河内正敏は、
科学主義工業、農村工業を掲げて、
ビタミンA、感光紙、ピストンリング、と次々に事業化。
最盛期には63社を数える理研産業団を育んだ。

研究所発、研究者発の事業開拓。
「科学技術立国・日本」の出発点であった。

理化学研究所43号館(東京・駒込) 大河内正敏の還暦を祝って理研産業団が寄贈した大河内記念館(43号館)は、<>理研OBクラブとして今も健在だ。戦前の理研の面影を伝える貴重な建物である。

初期の理化学研究所(1920年代頃)。
左は1号館、右が3号館。(理化学研究所所蔵)

旧大多喜藩主の嗣子に生まれる

  理化学研究所の広報誌『理研ニュース』に、「原酒」というコーナーがある。毎回、研究者の洒脱なエッセイを楽しみにしている。
  「原酒」とは、“研究を醸すモルト”の意味に解釈していたが、“原子力から酒まで”という幅広い研究フィールドを示すものであることを、今回の取材で知った。それを育てたのが、第三代所長大河内正敏である。
  大河内正敏は、1878年(明治11年)に、上総(千葉県)大多喜藩主だった子爵・大河内正質の長男として生まれた。父・正質は、鳥羽伏見の戦いで幕軍総指揮官をつとめている。
  学習院初等科では、後に大正天皇になる皇太子のご学友をつとめた。第一高等中学(旧制一高)から帝国大学工科(東大工学部)造兵科に進み、成績優等の「恩賜の銀時計」を受けている。その後、欧州留学を経て、1911年に東京帝大工学部教授になった。専門は弾道学である。
  大河内は、工科の授業に初めて物理の実験を採り入れるなど、理論と実践の融合に力を注いだ。この自由な発想は、総合科学を必要とする兵器の研究に身をおいたこととも関係があったろう。

船出から資金難の理化学研究所

  1921年(大正10年)、大河内は請われて理化学研究所の第三代所長に就任した。東京帝大教授、貴族院議員との兼務だった。
  理化学研究所は、1917年に財団法人として設立された。ジアスターゼやアドレナリンの発見で知られる高峰譲吉や初代帝大化学科教授の桜井錠二らが中心となって、渋沢栄一を後盾に大隈重信に進言し、岩崎(三菱)、三井など財界の寄付も集めて、「産業の発達を図る為、純正科学たる物理学および化学の研究を為し、同時にその応用方面の研究を為す」ことを目的に、東京・文京区駒込に発足した。
  初代所長には帝大総長、文部大臣を歴任した菊池大麓が就いた。物理部長には、土星型原子模型を提唱した長岡半太郎、化学部長には、「うまみ」の成分がグルタミン酸ソーダであることをつきとめた池田菊苗が就任。ビタミンB1(オリザニン)発見者の鈴木梅太郎、KS鋼発明者の本多光太郎など、そうそうたるメンバーがそろった。翌年、大河内も研究員に名を連ねた。
  しかし、理化学研究所は最初からつまづいた。就任5カ月で菊池が急死し、第二代所長に土木の長老・古市公威が就いたが、第一次大戦後の不景気で予定した基金が集まらなくなった。物理と化学の研究者の対立も表面化し、1921年、古市は健康問題を理由に辞任した。
  第三代所長の選考は難航した。そこで所内に目が向けられ、爵位をもつ貴族院議員の大河内に白羽の矢が立った。このとき、43歳であった。

「どうですか」で自由な研究を広げる

  大河内は、内部の改革から手をつけた。若年の大河内にとって、長岡、池田、鈴木、本多らは大先輩である。これら猛者をいかに動かすか。考え抜いた末に、物理・化学部を廃止して研究室を独立させ、主任研究員にテーマ、予算、人事の一切を委譲する「主任研究員制度」を導入した。これにより、研究に専念できる環境が整った。
  次は、基金不足と金利低下の二重苦にあえぐ運営資金の問題である。細々とやっていては成果はあがらないと考えた大河内は、恩賜以外の基金を取りくずす決意をした。「5年を経ずして基金はなくなるだろうが、成果さえあがっていれば政府も無視できまい」と、反対意見を押し切って、積極的に最新の実験機材や試薬、文献の購入を進めた。
  理化学研究所はようやく所長に適材を得た。大河内は所長室に早朝から詰め、所内をくまなくまわって、若い研究員に声をかけた。
  「どうですか」「物理が化学をやっても自由です」「本は家で読めます、独創研究のために実験をどんどんしなさい」
  事務方には「研究者がいってきたら、一等良いものをすぐ買ってやれ。気が乗ったときにやらないと研究能率が落ちてしまう」ともいった。
  「どうですか」は大河内の口癖だった。東大でも、私費で助手や補助員を雇って実験をやらせ、谷中の邸宅からフィアットで研究室にやってきて「どうですか」、講義を終えて「どうですか」、貴族院から戻って「どうですか」を連発するので、助手は休むひまがなかった。理化学研究所にも、研究補助を目的とする工作部を新設した。

画期的なインセンティブ制度

  理化学研究所の年間予算は急に増え、たちまち90万円を超えてしまった。もはや、国の助成金も民間の寄付金もあてにできない。
  そこで、大河内が考えたのは、研究成果を事業化して資金を調達することだった。それまでも特許販売は行っていたが、物理・化学の基礎研究が中心で応用技術は少なかったので、大した額にはならなかった。
  事業化第1号は、池田研究室から生まれた。磯部甫が開発した吸湿材「アドソール」である。新潟に産する酸性白土で、水や揮発成分をよく吸い加熱すると元に戻る。大河内は新潟県柏崎で天然ガスから揮発油を回収する実験を始めた。この事業はうまくいかなかったが、「アドソール」は乾燥剤・除湿剤として、邦楽座、帝国劇場の冷房装置などに広く活用された。
  そして、救世主が“ウメ研”こと鈴木梅太郎研究室から現れた。
  「ビタミンA」である。ビタミンAは、1914年に米国のマッカラムがバターから発見した。タラの肝油にもビタミンAが大量に含まれているので、眼病患者や結核患者に肝油が投与されていた。ただ、きわめてまずいのが難点だった。そこで、研究員の高橋克己が、肝油からビタミンA抽出に取り組んだ。当時、ビタミンAはこわれやすいと思われていたが、高橋は肝油を熱やアルカリで強引に処理してわずか1カ月で分離に成功した。
  大河内は小躍りした。周囲は製薬会社に製造特許の販売を勧めたが頑として聞かず、所内に溶媒槽や蒸留装置を入れて自ら量産することにした。工作部の活躍で4カ月で試験工場ができ、ゼラチンカプセルに詰めて『理研ビタミンA』として36錠入り2円で売り出した。これが爆発的にヒットして、1924年だけで約30万円を売り上げ、3年後には年間売上が100万円以上になった。
  ここで注目すべきは、大河内は発明者の高橋に年10万円を超える報償金を払ったことだ。まさにインセンティブ(成功報酬)である。高橋は惜しくも若くして腸チフスで急逝したが、遺族にも売上に応じて年間10万円を超す報酬金が支払われた年もあったという。
  一方、主任研究員の鈴木梅太郎も、「主食の米から酒をつくるのはもったいない」といって人造酒の研究を続けていた。アルコールは糖蜜などを発酵すればよいが、問題は味と香りである。鈴木はその正体は有機酸だとにらんで研究を続け、コハク酸にたどりついた。最初はひどい味だったが徐々に改良され、人造酒『利休』が完成した。大河内は、さっそく製造販売を始めようとしたが、大蔵省管轄の酒類ルートの壁は厚く苦戦が続いた。その成功は1940年頃まで待たねばならなかった。
  しかし、財政危機は去った。所長就任時は100人足らずだった所員も、1925年には約350人に達していた。新たに加わった主任研究員に、夏目漱石の『三四郎』の“野々宮さん”のモデルで、X線回折の研究で知られる寺田寅彦がいた。寺田は「線香花火の研究」「金平糖の角の発生」など異色の研究を行い、後に東大に戻り地震や地球物理研究の基礎をつくった。女性研究員も多かった。黒田チカは染料の研究で理学博士になり、丹下ウメは過食の研究で農学博士になった。
  1925年、大河内は東大をやめ、理化学研究所に専心した。

理研産業団の誕生

  1927年(昭和2年)、大河内は研究成果を本格的に事業化するために理化学興業(株)を設立し、自ら会長に就いた。(株)野村銀行(大和銀行・野村證券の前身)などの支援のもと、1930年に柏崎に本社工場が建設され、発明品の企業化・工業化の一大実験場となった。
  当初は、アドソールの空調関連応用品、ビタミンA、B1、D、人造酒の製造販売だったが、これらに刺激されて各研究室から“芋づる式”に新発明が生まれていた。紫外線吸収材ウルトラジン、殺虫剤、コランダム研磨材、アルマイト、ガス微量分析計、精密工作機械、高電気抵抗器『リケノーム』、電解コンデンサー、金属マグネシウムや炭酸マグネシウムの製造など、きわめて広範囲な分野にわたることに驚く。
  例によって、大河内は、発明者にどんどん報償金を与え、1932年の理研マグネシウム(株)の設立以後、製造販売会社を次々と設立していったので、理化学興業は持株会社の性格に変わっていった。ここに、理研産業団(理研コンツェルン)という企業集団が誕生したのである。
  新会社の中でも、1934年設立の理研ピストンリング工業(株)(現・(株)リケン)は、大河内研究室から生まれた。大河内は、エンジンのピストンリングに信頼性のあるものがないことに着目して研究を進めていたが、門下の海老原敬吉が「ピン止め加工」という斬新な製造法を完成させたのである。おりしも、わが国の自動車工業、航空機産業の勃興期を迎えていたが、理研のピストンリングは航空機用リングで名声を博し、本格的に生産された。
  桜井錠二の子・桜井季雄が発明した陽画感光紙をもとに1936年に設立された理研感光紙(株)は、後に写真機など光学製品を加えて理研光学工業(株)と改称し、今日のリコーグループの礎となった。
  その後も、特殊鋼、再生ゴム、合成樹脂、栄養食品と法人化がつづき、理研産業団は1939年には63社にのぼる企業グループに成長していった。
  理研産業団でユニークなのは、理化学興業の工場を柏崎においたように、大河内の「農村工業」の考え方に沿って、農村に小規模工場を数多くつくったことだ。工場作業に慣れない人のために仕事を単純化する工夫もされた。余談だが、この思想に感激した若き日の田中角栄が、大河内の書生になるべく上京し、後に大河内の知遇を得て事業を広げた逸話は有名である。
  また、大河内は「科学主義工業」を唱えて、「理研産業団は利潤追求が目的ではない。研究成果を世に還元し、理化学研究所の資金を得て、日本を科学技術大国にするのが目的だ」という趣旨を述べている。

戦時体制のなかで

  事実、大河内は、理研産業団から得た収益を理化学研究所に惜しみなく注ぎ、1940年には、所員も1,800名を超えていた。とりわけ、基礎科学の研究を重視した。
  その象徴が、原子物理学・量子力学のメッカとなった仁科芳雄研究室であろう。仁科のもとに、後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎、坂田昌一、武谷三男などの俊英が集まってきた。日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹も籍を置いたことがある。
  しかし、戦争の足音が迫ると、理研産業団は11社に再編成されて、軍事産業の中に組み入れられていった。さらに、仁科研究室も、軍の要請で原子爆弾の原料となるウラン235の濃縮を始めることになった。
  こうしたこともあって、戦後、GHQによる理化学研究所と理研産業団の解体につながっていくのである。仁科研究室の大型サイクロトロン(加速器)は解体・投棄され、大河内は公職追放となった。
  大河内は、自邸や真鶴の別荘で、科学主義工業に関する著作とともに、趣味の陶器鑑賞の書物を執筆して日々を過ごした。そして、追放解除になった翌年の1952年8月、73歳で死去した。
  一方、理化学研究所は1948年に特殊法人として復活し、今日、日本のCOEと呼ばれるまでに発展している。大河内が創始した主任研究員制度、自由な研究といった伝統は、そのまま受け継がれている。(文中敬称略)

取材・大喜三郎 撮影・山田勝巳
取材協力 理化学研究所、株式会社リケン、株式会社リコー
参考 『科学者たちの自由な楽園』宮田親平、『新興コンツェルン理研の研究』斎藤憲






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