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IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1998〜1999年12〜1月号 Vol.35
 

西と東の美と知の融和
資生堂創業者 福原有信
初代社長   福原信三

創業者 福原有信

初代社長 福原信三


“資生”とは、“万物が生まれる”意である。
漢方医の家に生まれ、西洋薬学を志した資生堂の創業者 福原有信は、
東洋哲学と西洋科学の融合をこの言葉に込めた。

その資生堂の精神を、 『品質本位、共存共栄、消費者、堅実、徳義尊重』の
五大主義に凝縮したのが、初代社長 福原信三である。
資生堂の126年、そして、新たな世紀も、 すべて、この理念のもとにある。

高等化粧水『オイデルミン』(左)。化粧品販売100年を記念して、明治30年(1897)発売のデザインを忠実に復刻した。美しいカットグラス容器はハイカラの象徴だった。
背景は、平成10年(1998)開催の資生堂展『美と知のミーム』のポスター。大正14年(1925)の『資生堂図案集』から復原された。

 

“和魂洋才”のスピリット

  明治5年(1872)、新橋―横浜間の鉄道開通とともに、洋風煉瓦づくりの銀座の街並が整った。洋食屋、パン屋、洋服屋などのハイカラな店が並び、煉瓦敷きの舗道を断髪洋装の男女が闊歩した。ちなみに“銀座の柳”は明治中期からで、当初は松、桜、楓の街路樹だったそうだ。
  この年、資生堂も日本初の洋風調剤薬局として出雲町(現在の銀座七丁目)に創業した。創業者の福原有信は、嘉永元年(1848)、安房(千葉県南部)の郷士の家に生まれた。漢方医を祖父にもつ有信は、17歳で江戸に出て、織田研斎のもとで西洋薬学を学んだ。その後、幕府医学所に入り、明治維新後は大学東校(東京大学医学部の前身)に学び、海軍病院薬局長に就いた。
  有信は、その地位に安住することなく、医薬分業の実践を志して資生堂を開業した。世間に粗悪な薬品が多いことを憂えて、高品質な薬品を供給したいという望みがあった。この時、弱冠23歳であった。
  “資生”とは、易経の“至哉坤元 万物資生 乃順承天”に拠る。
  「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている」という意味である。商号にこの資生を掲げたところに、東洋的な精神と西洋科学を融合しようという“和魂洋才”の理念が見える。しかし、開業当初は高価な薬品ばかり扱ったため、経営はかなり苦しかった。
  明治11年から、『けはへ薬 蒼生膏』、健胃強壮『ペプシネ飴』などの製造販売を開始した。当時の広告には横浜、名古屋、京都、松山などと記載されているので、取次店は順調に全国に拡大したようだ。明治21年には、日本初の練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売した。従来の歯磨粉は、焼き塩や房州砂に香料を混ぜたものにすぎなかった。『福原衛生歯磨石鹸』はその10倍の値段だったが、歯石・口臭除去の効能が支持され売れ行きは上々だった。内国勧業博覧会では褒状を受けた。
  明治26年発売の『脚気丸』は、海軍の兵士に脚気が多いことから“食物の配合不良説”を唱えた海軍軍医総監の高木兼寛説に基づいて開発された。本邦初のビタミン剤だったと推定されている。その後、高木が開設した東京病院の薬局経営を任されたことで、資生堂の名はさらに高まった。

化粧品事業に進出

  明治30年、資生堂は、オリジナル商品として高等化粧水『オイデルミン』などを発売、化粧品事業に進出した。『オイデルミン』は、大学東校以来の友人である東京帝大教授長井長義の処方になるもので、ガラス容器の美しさもあって“資生堂の赤い水”として評判を呼ぶ。『オイデルミン』は現在も愛用される100年以上続く超ロングセラー商品である。
  有信の事業は化粧品にとどまらない。明治33年の欧米視察旅行のおり、米国のドラッグストアでソーダ水製造機が目にとまった。さっそく、機械一式、シロップやコップ、ストローまで輸入して、明治35年に『ソーダ・ファウンテン』(現在の資生堂パーラー)をオープンした。
  資生堂のソーダ水やアイスクリームは、森A外が小説『流行』に書き、永井荷風が賞賛を惜しまなかった。A外はまた『金毘羅』で「大学で不断使はない新薬は本郷の附近の薬店にはない。やうやう資生堂にあるのを衝き留めたといふのである」と記し、夏目漱石も『門』で「自分の下宿にゐた法科学生が、一寸散歩に出る序でに資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸や歯磨を買ふのでさえ、五円近くの金を払ふ華奢を思ひ浮かべた」と書いた。資生堂が最先端の場所であったことを物語っている。

初代社長のもうひとつの顔

  大正4年(1915)、福原有信から事業を受け継いだのは、三男の信三である。福原信三について平凡社の大百科事典を引くと、冒頭に「日本の代表的なアマチュア写真家」とある。信三はもともと画家を志していたが、長兄の病気、次兄の早世もあって、有信に諭されて経営を継いだ。しかし、芸術への思いは強く、経営の傍ら、写真芸術社を興し、写真集『巴里とセーヌ』『西湖風景』をはじめ印象派風の作品を発表した。著書『光と其階調』では「写真芸術は自然を端的に表現する俳句の境地に近い」とする主張を展開し、写真界に大きな影響を与えた。
  ともかく、家業を継ぐ決意をした信三は、千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、明治41年に米国・コロンビア大学薬学部に留学し、卒業後はドラッグストアや化粧品工場で2年間働いた。その優れた働きぶりは、帰国の際に社長から化粧品の処方箋をプレゼントされたというエピソードからもうかがえる。欧州経由で帰国した後、信三は薬局の隣に化粧品部のビルを建て、新しい商品の開発にのりだした。
  その先駆けとなったのが、大正4年発売のヘアトニック『フローリン』である。ローマ字表記のラベルも信三のデザインになるものだった。

「資生堂五大主義」のもとで

  これ以降、化粧品に事業主体を移すことにした信三は、翌5年に意匠部を発足させ、美術学校の学生や若手画家をスタッフにして、ポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを始める。信三自身、社長室とは別に意匠部にもデスクを置き、アール・ヌーボーを基調にしたモダンで洗練された資生堂調のデザインを総指揮した。「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。
  『花椿マーク』の原型も信三がデザインした。それまで資生堂は『鷹』のマークを使っていたが、化粧品事業にふさわしいモチーフとして、人気商品の『香油 花椿』にちなんで椿が選ばれた。信三の弟の信義(福原義春会長の父)によると、信三は、水を張ったガラスの器に椿の花を浮かべて、スケッチを繰り返しながら構想を練ったという。当時の会社や商店は、家紋などのデザインがほとんどだったから、資生堂の『花椿マーク』は斬新だった。
  香水製造も始まった。大正7年の広告には『梅の花』『藤の花』『匂ひ菫』など21種の香水が記されている。当時の香水は舶来品かその模造品がほとんどで、梅、藤、菫といった日本的な香りは新鮮だった。雪の女王の艶やかなイメージを香りに表現した『雪姫』は独創的だった。この時代、“白粉は白”という常識を破る『七色白粉』も商品化した。
  新商品は、第一次大戦の影響で舶来品の輸入が途絶したこともあって飛ぶように売れた。その好調な事業を背景に、信三は、現在のメセナ(文化支援活動)につながる生活文化に関する多彩な事業を開始する。
  大正8年には商品陳列場を開放して、「資生堂ギャラリー」をオープンした。若手芸術家に発表の場を無償で提供するもので、現在までに5,000人以上の作家の作品が展示されている。その他、与謝野晶子ら文化人による銀座に関するエッセイ集『銀座』、北原白秋、吉井勇、西条八十らの執筆になる童謡、童話を掲載した雑誌『オヒサマ』を刊行するなど、流行の担い手を超えて、美しい生活文化の創造と発信に力を注いだ。この信三の精神は、大正10年に制定した資生堂五大主義『品質本位、共存共栄、消費者、堅実、徳義尊重』に凝縮されている。
  事業面でも、大正11年に美容科、美髪科を新設し、『資生堂石鹸』、『資生堂コールドクリーム』を発売した。翌12年には全国規模のチェインストアづくりも始まった。

震災被害をこえて

  大正12年9月1日に発生した関東大震災で、銀座は焼け野原になった。
  資生堂も店舗、製造施設、倉庫の一切を失い、壊滅的な打撃を受けた。これにくじけず、郊外の倉庫にあった石鹸を売り歩いて当座をしのぎ、大阪の卸部に小規模な製造施設を急造した。11月には銀座にバラック店舗を建てて営業を再開した。バラックといえども、川島理一郎デザインになるパリのカフェ風の洒落た建物は、今も語り草となっている。主要顧客の住む山の手の被害が少なかったのも幸いだった。
  翌13年春、創業者 福原有信は、復興を見ぬままに逝去した。
  この年、チェインストア向けPR誌『資生堂月報』(『花椿』の前身)が創刊された。創刊号には、美容健康記事だけでなく、婦人手袋の流行、コーヒーの入れ方、獅子文六と菊池寛のエッセイ、巴里通信など、多彩な記事が掲載されていた。

あこがれの資生堂パーラー

  昭和2年(1927)、資生堂は株式会社となり、信三は初代社長に就いた。翌3年、待望の2棟の新店舗が落成した。
  化粧品部は、アール・ヌーボーにネオ・ルネッサンスを加味した4階建てビルで、1階に化粧品、高級飲料、洋菓子、生花、写真機、薬品の各売場があった。2階は資生堂ギャラリーで、春秋には資生堂美術展が開催された。3階は催事場、4階には写真スタジオまで備え、資生堂のショールーム的色彩が鮮明に打ち出されていた。
  道を隔てた旧薬品部は、資生堂パーラーになった。オーケストラボックスまで備えたパーラーはたちまち話題となり、川端康成、太宰治、三島由紀夫などの小説に繰り返し登場する場所となった。
  福原義春会長も、日本経済新聞『私の履歴書』で「アール・デコ風二階建てのモダンな建物だった。一階のレストランは二階まで吹き抜けになっていて、二階のバルコニー席から下を見下ろすと、とても不思議な気分になったのを覚えている。そのころ、トマトケチャップがかかっているお子様ランチが、何より私の好物だった」と少年時の想い出を語っている。

戦争が生活文化を押しつぶす

  その間にも、世界恐慌と戦争の足音が迫っていた。不況の深刻化で、昭和6年には、『資生堂月報』を休刊し、資生堂美術展も休止する他なかった。
  廉価品シリーズも発売した。信三社長は、「だからといって安物を考えてはいけない。高価なガラス容器は使えなくても、気持ちは“リッチ”に」とパッケージデザインの手を抜くことはなかった。
  景気がやや回復すると、最高級品『ドルックス』、マリーネ・ディートリッヒを広告に起用した『クリーム白粉』などを発売し、『資生堂月報』を『資生堂グラフ』として復刊した。マネキンガール(キャンペーンガールのはしり)やミス・シセイドウ(ビューティーコンサルタントの前身)の募集、顧客の友の会である『花椿会』づくりなどに精力的に取り組んだ。
  昭和11年には、ニューヨークの百貨店・マーククロスで化粧品販売を行うなど海外進出も実現した。
  こうした成果をあげたものの、戦時色はいっそう強まっていった。昭和15年の奢侈品禁止令で、5円以上の香水など23品目が製造禁止となった。容器もガラス材料が軍に供出され、紙やベークライトになった。『花椿』(『資生堂グラフ』を改題)は休刊し、石鹸、歯磨、蚊とり線香などでしのがざるを得なくなった。それでも文化の孤塁を守るかのように、資生堂ギャラリーは昭和19年まで開かれた。

 昭和20年8月、ようやく平和が戻ってきたが、今度は極端な物資不足だった。その日の糧を得ることだけで精一杯の時代だった。
  そうしたなか、資生堂は、昭和21年1月に広告を再開し、銀座にネオン看板を高く掲げた。人はただ生きるにあらず、生きるに値する暮らしこそ必要だという信念からであった。真っ白なブラウスに面をあげて微笑む原節子のポスターは、新しい女性の輝きにあふれていた。
  資生堂が明治、大正、昭和を通じて実践してきたことは、西洋と東洋の美と知を融和し、新しい生活文化の提案を通じて、旧い因習から女性を解き放つことであった。その本当の時代がやってきたのを見届けて、昭和23年、福原信三は65年の生涯を閉じた。
  “西と東の美と知の融合”は、海外59カ国で事業を展開する資生堂の永遠不変のテーマである。(文中敬称略)

取材 大喜三郎
史料提供 株式会社資生堂