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IRマガジン
IR MAGAZINE トップの素顔 先駆者の大地
先駆者の大地 1998年6〜7月号 Vol.32
 

北斗にきらめく3つの星
雪印乳業株式会社

*2009年10月1日、日本ミルクコミュニティと共同持株会社「雪印メグミルク株式会社」[2270]を設立し、経営統合
宇都宮仙太郎
 
黒沢酉蔵
佐藤善七


雪印のマークの中心に星がある。
星は道の標となる北極星である。
宇都宮仙太郎、黒沢酉蔵、佐藤善七。
北の大地の独立自尊の農場主が、
関東大震災余波で疲弊した酪農家を組織して、
北海道製酪販売組合連合会を発足させた。
これが、雪印乳業の出発である。
北斗の3つ星がひとつに輝く物語を語ろう。

木製タテ型ハンドチャーン。
創業当時のバター製造装置。
(「バター史料館」)

牛飼いの三徳

  明治38年(1905)夏、札幌郊外白石村(現札幌市白石区)にある宇都宮農場に小柄な青年があらわれた。名は黒沢酉蔵、年は18歳、牧夫になりたいという。
  農場主の宇都宮仙太郎は、青年のきらきらした瞳に、単身函館にたどりついた20歳の自分の姿を重ね合わせた。仙太郎は大分県中津の農家に生まれた。福沢諭吉や前野良沢を生んだ土地柄である。仙太郎も大臣を志して上京するが、身体をこわしたこともあって夢を断ち、滋養をつけるために飲んだ青山の牛乳がきっかけになって、酪農をめざして北海道に渡ったのが明治18年のことである。
  それから、アメリカに行って農場を渡りあるきながら研鑽を重ね、明治23年に帰朝して北海道で搾乳業を始めた。しかし、明治のこととて牛乳になじみが少なく、一時東京に拠点を移したが、明治35年に再び戻り白石に農場を得た。ここで製造した手作りバターが札幌在住のお雇い外人の評判になり、ようやく事業が軌道に乗ったところだった。
  仙太郎は青年・酉蔵を雇い入れることに決めた。
  「牛飼いには、三つの徳がある。役人に頭を下げなくてもよい。牛には嘘をつかなくてもよい。そのうえ、牛乳は人を健康にする」と説いた。
  酉蔵は深くうなずいた。

田中正造ゆずりの「健土健民」

  うなずいたのには訳がある。黒沢酉蔵には、前橋監獄に未決囚ながら半年間ぶち込まれた経験がある。
  酉蔵は、茨城県久慈郡(今の常陸太田市)の貧しい農家に生まれた。徳川光圀が『大日本史』を編んだ西山荘の近くである。郷土出身の教師を頼って東京の京北中学に通っていた酉蔵の人生を変えたのは、明治34年12月12日付の朝刊の一面だった。衆議院議員・田中正造が足尾銅山の鉱毒問題で天皇に直訴したという記事がでかでかと載っていた。逮捕された正造は天皇のはからいで放免となり、新橋に逗留しているという。農民のために身を捨てようとした正造に、酉蔵は居ても立ってもいられず、正造をたずねた。
  「突然やってきた若輩の私にも諄々と問題の意味を語ってくださった」感激で災害地学生視察団に加わり、渡良瀬川流域の村を巡った。その後、学生鉱毒救済会が組織された。主要メンバーに内村鑑三、木下尚江らがいた。救済会はやがて当局の介入でしりすぼみになる。しかし、農民の悲しみを肌で感じた酉蔵は、残ったわずかな同志と村々の青年たちを組織して政府の懐柔策に反対して回っていた。ところが、話し合いのために懐柔派の家の玄関に入ったところで逮捕された。罪名は“家宅侵入罪”であった。
  その後、正造の尽力でなんとか無罪を勝ちとったが、正造は学校に戻って勉強を続けろという。周囲の理解もあって中学校は卒業した。そして、母の死を機に実家に戻ろうとも思ったが、正造の思想を実践するために伝手を頼りに北海道にやってきたのだった。後に、酉蔵は「健土健民」(健やかな土地には健やかな民族がある)を理念に掲げるが、その思想は正造から受け継いだものだと語っている。
  宇都宮農場で、酉蔵は朝3時に起きて働いた。きゃしゃな肩に天びん棒が食い込んで骨がきしんだ。それでも寝る間を惜しんで木の枝に荒縄を掛けて搾乳の練習に励んだ。
  明治39年に兵役についたが、除隊した明治42年、軍隊で貯めた24円を元手に、牛1頭を借りて独立し、牛乳販売を始める。やはり朝3時に起きて搾乳し、夜9時まで市内を配達した。ことに雪の降り積んだ朝が辛かった。5年後、東屯田村にようやく自分のサイロをもつことができた。

不屈の北海道2世

  北海道において、民間で初めて酪農を確立した宇都宮農場には、酉蔵だけでなく幾多の人材が集まってきた。そんな中に牛乳配達を志願した小学4年の佐藤貢少年がいた。彼の父は佐藤善七といい、道庁勤めの役人であった。
  善七は、有珠郡伊達町の生まれである。町の名が示すとおり、伊達藩士族らが集団で開拓した土地である。善七は子供時代の怪我がもとでリュウマチを患い、明治33年に右足切断の手術を受けていた。その不自由な身で、明治40年に家族の反対を押し切ってリンゴ園と牧畜の経営を始めた。
  ある日、善七は宇都宮農場に仙太郎をたずねた。「宇都宮さんは片足に草鞋をはき、もう一方は素足で働いていた。その真剣な働きぶりに感銘を受けた」と後に善七は回顧している。そして、「世の中を知るために働きなさい」と貢少年を宇都宮農場に送りだしたのである。

札幌の酪農三羽烏

  この3つの星がひとつになって輝くのは、大正2年(1913)の大凶作である。
  明治初年にほぼゼロであった北海道の水田面積は、開拓民と屯田兵の努力で明治末年には5万ヘクタールに広がり、名寄あたりまで稲作ができるようになっていた。
  黒沢酉蔵は、空知や上川まで視察に出掛けていって、今回の凶作が全道規模のものだと確信した。当時のことを佐藤貢は「黒沢さんの報告では『米をつくっている農家でさえ餓死者が出ている。皆、草の根やワラをダンゴにして食べている』とのことだった」と記している。
  宇都宮農場でも、穂のない稲を飼料としてできるだけ買い入れたが焼け石に水である。とても厳しい冬を越せない。そこで、宇都宮仙太郎を会長に、酉蔵と佐藤善七が役員になって、救済運動を開始した。毎晩、貢がラッパを吹いて、一軒一軒、個別訪問をして義捐金を募った。
  3人を結ぶもうひとつのキーワードは、それぞれキリスト教会に帰依していたことである。運動は札幌の教会の合同救済事業に広がり、大量の義捐金、米、衣類を被災地に送ることができた。いつしか、人々は、仙太郎、酉蔵、善七を札幌の酪農三羽烏と呼ぶようになった。

「独立自尊」の農民

  宇都宮仙太郎は歯がゆかった。こうなったのも酪農をやらないからだ。北海道の土地はただでさえやせているのに、穀物農業は土地から滋養を奪うばかりで、いっそうやせてしまう。アメリカで酪農を学んだとき、「センタロウ、日本で牧場をやるなら町の近くに土地を選べ。運搬の手間がかからず新鮮な製品を届けられるからだ。たとえ、土地がやせていようと、牛の糞尿が肥沃な土壌に変えてくれるだろう」といわれた。それを実践して白石村に農場を開いたのだが、今では牧草どころか豆も野菜も青々と育っている。どんなに冷害でも草の生えない年はない。
  仙太郎は、酉蔵が兵役についていた頃、牧場仲間に頼まれて再び渡米して、乳量の多いホルスタイン種を50頭買い付けてきた。輸送費も入れて1頭当たり600円というから、超高級車よりも高かったはずだ。
  政府や道庁の対応の鈍さにも業を煮やしていた。
  仙太郎は敬愛する福沢諭吉の「独立自尊」という言葉が好きだったが、「これからは、自分たちでデンマークに学ぶべし」といって、出納陽一・次女こと夫婦をデンマークに送り出した。ことを同伴させたのは、牧場の大切な働き手である女性の仕事も改善したかったからだ。
  陽一から「デンマーク農業の発達は、一に教育、二に組合組織、三に独立農民を作る政府の方針にある」という手紙が届くと、いっそう意を強くした。
  道庁にも先が見える長官がいた。宮尾瞬治である。彼は酪農三羽烏の具申を受け、デンマークからモデル酪農家を2家族招聘した。札幌で酪農経営を実践してもらい、それを目のあたりにして学ぼうという試みだった。技術だけでなく、生活改善の面でも多大な効果があったという。

関東大震災余波

  宮尾長官が北海道牛馬百万頭増殖計画を打ち出した矢先の大正12年9月2日、関東大震災が発生した。これが北海道の酪農を打ちのめすのである。
  外国から続々と届いた救援物資の中に、練乳(コンデンスミルク)の缶詰が多数あった。さらに、政府は一時的に関税を免除したので、輸入練乳もどっと増えた。その頃、北海道の牛乳は道内だけでは消費できないので、練乳会社が農家から買い付けて練乳に加工して東京などに送っていた。外国産は品質も良く大量だったので、北海道産の練乳はだぶついて、練乳会社が買い付けを停止したり、買い叩くようになった。売れない牛乳は川に流すほかなかった。
  酪農三羽烏はこの状況に憤激し、「農民のことは農民でやる、デンマークに習って組合をつくろう」といって、札幌、石狩、小樽、空知の酪農家629人に出資を募り、大正14年に仙太郎を会長として「北海道製酪販売組合」を組織した。翌年連合会組織に改められ、略称「酪連」となる。

「酪連」発祥の地

  JR千歳線上野幌駅から歩いてすぐの所に、雪印スケートセンターがある。同社アイスホッケーチームのホームリンクだ。裏手に芝生が広がり、古びた石造のサイロがたっている。木立ちに囲まれた一角には美しい洋風住宅があり、脇に斜面を利用した赤い屋根の小さな工場も見える。
  ここが「酪連」発祥の地である。もともとは出納陽一の農場だった。ここを「酪連」が仮工場として借り受け、バターを製造した。工場の内部は「雪印バター誕生の記念館」として当時の様子が再現されている。バターは、「バターチャーン」と呼ぶ木製の樽にハンドルをつけた装置を手回ししてバター粒を分離してつくられた。
  最初の工場長は、ラッパを吹いていた佐藤貢である。彼はアメリカのオハイオ州立大に留学して腕を磨いていた。販売担当は黒沢酉蔵だった。東京で製品を卸して歩いたが、外国製品どころか、伊豆大島産のバターにも品質で負けた。ようやく引き取ってもらっても、ブランド力がないため、大島バターの箱に詰め替える問屋さえあった。
  バターはかめに入れて保存していたが、在庫は増える一方で、とうとう札幌でかめを調達できなくなって小樽まで買い出しにいったという笑えない話が残っている。
  酉蔵は、新工場をつくるべく、東京の産業中央金庫に直談判に出向いた。相手が貸し渋るのを「産業組合の金融機関たるものが、農民が団結して事業を興そうというのに、なにゆえ援助を惜しむのだ」と一喝して資金を調達した。
  新工場は、JR苗穂駅近くに大正15年秋に竣工した。最新式の装置を導入して、冷蔵庫も完備したから品質も飛躍的に向上。チーズの製造も開始した。
  この年の暮れ、自らの製品を誇りをもって売るために、雪の結晶の中に北斗星が輝く「雪印」のマークを制定した。昭和2年(1927)には冷蔵貨車も完成した。

教育の実践・酪農義塾

  「酪連」は昭和15年に戦時下の大同団結で「北海道興農会社」に発展的に解消せられ、昭和25年に雪印乳業株式会社が新発足した。
  宇都宮仙太郎は、昭和3年に子供たちに農場をゆずるとともに現役を退き、全国を回って酪農普及に余生を捧げ、昭和15年に死去した。
  黒沢酉蔵は「酪連」の会長となり、「雪印」を全国ブランドにするとともに、昭和10年には英国にまで輸出した。その傍ら、デンマーク農業の神髄である教育を実践するため、昭和8年に「酪連」発祥の出納農場に「北海道酪農義塾」を創設した。同塾は、大学、短大、高等部をもつ酪農学園に発展している。その後、北海道興農会社の初代社長、衆議院議員を歴任。昭和57年に死去した。
  佐藤善七は、昭和9年に札幌信用組合(現札幌信用金庫)の理事長をつとめ、昭和32年に死去した。佐藤貢は雪印乳業初代社長となり、現在も相談役として健在である。(文中敬称略)

取材・大喜三郎 撮影・山田勝巳
史料提供 雪印乳業株式会社